ミントの人物伝その78〔第720歩〕

ロマンに満ちた人生を送った北海道の命名者です。


ミントの人物伝(その78)



松浦武四郎(まつうら たけしろう、1818−1888)
幕末から明治にかけての探検家、
好古家、浮世絵師、登山家。


1818年(文化15年)、伊勢国三重県一志郡須川村にて
郷士・松浦桂介ととく子の四男として生まれる。

子供のころから見知らぬ国々の様子が分かる名所図絵を
読むのが好きだった。

13歳で津の平松楽斎論語を学び、
山口遇所篆刻(てんこく、印鑑を彫ること)を学んだ。

だが諸国を見聞したいという気持ちが高まり
ついに16歳に家を出奔する。

江戸に出たあと
1838年天保9年)に平戸で僧となり文桂と名乗る。
故郷を離れている間に親兄弟が亡くなり、天涯孤独になったのを契機に還俗する。


この頃、蝦夷地にオロシャ(ロシア)の船舶がさかんに出没している。
また鯨の油を求めるアメリカの太平洋進出があり
時代は緊迫の度合いを深めてきていた。
ところが幕府は蝦夷地の支配は松前藩にまかせたままで
有効な対策をしていない。

武四郎はその話を聞いて
ー行こう、蝦夷へ。何ができるか分からないが
この眼で調べてみようー

なお、武四郎は小柄だったが、無類の健脚だったという。


27歳で蝦夷地へと旅立った武四郎だったが、
当時松前藩の領地である蝦夷地へ渡るには厳しい取締りがあり、
その決意が実を結んだのは1年後のことだった。

1845年(弘化2年)第1回蝦夷地調査 武四郎28歳

蝦夷地へ渡ることができた武四郎は、
箱館から太平洋側の海岸線を歩いて知床岬まで行き、
そこに、「勢州一志郡雲出川南 松浦竹四郎」などと記した標柱を建て、
箱館に戻った。

※函館は当時は「箱館」と表記されていた。


1846年(弘化3年) 第2回蝦夷地調査 武四郎29歳

江差から日本海側の海岸線を歩き、
宗谷から北蝦夷(サハリン)南部を調査。
宗谷に戻ると、オホーツク海側の海岸線を歩き、知床岬へと達する。
これにより、北海道の海岸線をほぼすべて踏破したのである。


1849年(嘉永2年)第3回蝦夷地調査 武四郎32歳

箱館から船に乗り国後島択捉島を調査した。


1854年(嘉永7年)3月の日米和親条約を皮切りに、
日露和親条約などが締結されると、武四郎の人生にも
再び大きな転機が訪れる。
日露間の外交関係は緊迫化しており、
蝦夷地の調査は当時の幕府にとって重要な課題の一つとなった。
その中で、武四郎は幕府から、蝦夷地調査を命じられることになる。

今までは個人としての蝦夷地旅行だったが
今度は幕府のお雇い役人として蝦夷地に渡ることになった。


1856年(安政3年)第4回蝦夷地調査 武四郎39歳

向山源太夫を隊長とする調査隊の一行に加わった武四郎は、
箱館から日本海側を北上し宗谷まで行くと、
蝦夷(サハリン)へと渡り、
中部のシツカ(現ポロナイスク)まで調査して、
宗谷からオホーツク海側、太平洋側をまわって箱館へ帰った。

武四郎に与えられた任務は、蝦夷地の山や川などの地理や、
新しい道を作るためのルートを調べることだった。
このときの調査報告書は、
「按西扈従」・「按北扈従」・「按東扈従」と題して、32冊にまとめられる。

このなかで武四郎は、松前藩の役人や請負人の残酷な仕打ちにより
アイヌ人の人口が激減している実態を伝え、幕府が第一にやるべきことは、
アイヌ人の命と文化を守ることであると訴えている。

1857年(安政4年)第5回蝦夷地調査の足跡 武四郎40歳

病から回復した武四郎は、予定していた北蝦夷(サハリン)調査を変更して、
かねてより希望していた石狩川天塩川
河口から上流部まで遡る調査をおこなった。

このときの調査報告書は、
「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌」と題して、23冊にまとめられた。

1858年(安政5年)第6回蝦夷地調査の足跡 武四郎41歳

蝦夷地のほぼすべての海岸線と日高地方の河川、
十勝、道東地域の内陸部の調査をおこなった。

このときの調査報告書は、「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌」と題して、
62冊にまとめられた。

1859年(安政6年)には、蝦夷地の詳細な地図
「東西蝦夷山川地理取調図」が刊行される。
蝦夷地の探検や地図の作製は
これまで伊能忠敬間宮林蔵が行っているが、内陸部の地勢まで調べ上げたのは
武四郎が初めてだったのである。

東西蝦夷山川地理取調図


1869年(明治2年)、
武四郎は開拓使庁の開拓判官となり、従五位を授けられた。
高級官僚と言っていい。
彼の長年にわたる業績を新政府も認めたのだ。

同7月、彼は蝦夷命名に関する意見書を提出。
「北海道」の名(当初は「北加伊道」)を与えたほか
アイヌ語の地名をもとに国名・郡名を選定した。
現在も残る北海道の多くの地名が、このとき決められたのである。


しかし武四郎は、新政府になってもアイヌ人の境遇が改善されていないのを
深く憂慮していた。

「徳川の頃からアイヌ人は搾取されてきた。
明治の世になっても状況は少しも変わっていない。
同じ人間としてこのような差別がまかり通っているのはおかしい」

アイヌへの搾取を温存する開拓使を痛烈に批判したが
結局受け入れられなかった。

ー受け入れられないのなら役人はやめようー

武四郎はこのとき数え歳53歳だったが
いさぎよく高級官僚の職を辞し、従五位の官位も返上した。
なかなか出来ることではない。


辞職した武四郎だったが、じっとしているわけではなかった。

天神(菅原道真)を篤く信仰していた彼は、全国25の天満宮を巡って鏡を奉納する。
また縄文時代から近代までの国内外の古物を蒐集したり、
北海道人と号して「千島一覧」という錦絵を描いたりもしている。


じつは武四郎は、日本の近代登山史においても重要な人物なのだ。
武四郎は、16歳の時に江戸へ一人旅に出たが、
江戸からの帰途、中山道を通った時に、はじめて戸隠山に登った。
以来、70歳で富士山に登って山岳行を終えるまで
奈良県大台ケ原山など生涯に49前後の山に登り、記録を残した。

彼の足跡は北は樺太(サハリン)、南は鹿児島の山に至る。
武四郎はじつに
「近代登山のパイオニア」と呼ぶべき人物でもあったのである。


古稀富士登山で終えた武四郎は妻とともに暮らしていたが
1888年明治21年)、東京の自宅で脳溢血により死去する。
享年71歳。


日本の自然を愛し
アイヌの人々にやさしい視線をそそいだ
武四郎のやすらかで静かな最後だった。


(参考文献)
Wikipedia
松阪市松浦武四郎記念館HP
「炎の旅人」本間寛治 著
松浦武四郎と江戸の百名山中村博男 著
画像は 松阪市松浦武四郎記念館HPや
Webから借用いたしました。



[平成28年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20161231


[平成27年の記録]
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[平成26年の記録]
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[平成25年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20131231


[平成24年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20121230


[平成23年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111231


[平成22年の記録]
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[人物伝]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20140930


[YAMAPの記録]
https://yamap.co.jp/mypage/199626



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