ミントの人物伝その79−1〔第735歩〕

青年はある日、一冊の本を手に取りました。
それが始まりでした。


ミントの人物伝(その79−1)


グリエルモ・マルコーニ(1874−1937)
イタリア人。無線通信の先駆者。実業家。


銅線の中を電流が流れると変化が起こり
電気と磁気のエネルギーが交互に波のように広がりながら
進んでゆく。
これが電磁波である。
英国のマックスウェルはこの電磁波の存在を予言した。


19世紀、電信技術の発展はめざましかった。
1837年、モールス(米)が電信機を発明して以来、
電信網が急速に拡大してゆく。

1866年には大西洋横断海底ケーブルが敷設される。

1876年、ベル(英)が電話機を発明する。
この発明によって、有線による通信は一つの頂点に達した。
いたる所に電線がはりめぐらされ、有線通信が一般化されたのである。

1888年ハインリヒ・ヘルツ(独)が
電磁波(電波)を発信し、かつ検出できることを証明した。
これは非常に画期的なことだった。

有線通信では電線の設置が困難な場所もあるし、
船舶と港の間、あるいは船同士の通信は不可能である。
電磁波(電波)を人為的に受発信できるならば、それで電信が可能ではないか?
これが当時の科学者の重要な研究テーマになったのである。


マルコーニはイタリアのボローニャで生まれた。
父のジュゼッペは裕福な地主でであり、母のアニーアイルランド出身の
実業家の娘だった。
また9歳年上の兄、アルフォンソがいた。

マルコーニは14歳までは家庭教師の下で学ぶが、
次第に電気に関心を持つようになる。

ボローニャ大学の物理学者で
マルコーニ家の隣人でもあったアウグスト・リーギという人物がいたが
マルコーニは彼の下で学ぶようになる。

リーギは電波に関する研究書「The Electrician 」を購読しており、
20歳のマルコーニはある日、
この本に書かれているヘルツの論文に夢中となった。


ーヘルツは電波を発信できるといっている。
もしもこの電波に信号を乗せることができれば
凄いことにちがいないー


マルコーニは自宅の屋根裏で実験を開始した。
他の科学者の発見や発明を工夫しながらの研究である。
彼は並外れた集中力を発揮し、食事以外で実験室を出ることはなかった。
父親はマルコーニの研究に懐疑的だったが
アニーとアルフォンソの二人はマルコーニの理解者だった。

まずマルコーニは、誘導コイルを使って火花を発生させる装置を作った。
この段階は難なくクリアしたが問題は受信機側。
電波をキャッチするコヒーラ(受信機)がなかなか反応してくれない。


マルコーニ


1894年12月のある夜、
マルコーニは1階に降りてきて、アニーを起こして言った。

「母さんできたよ。実験が成功したんだよ!」
母親を受信機の前に座らせ、マルコーニは数メートル離れた場所で
送信機のスイッチを入れた。

アニーは驚いた。
突然、手も触れないのに、受信機に接続したベルが鳴りだした!
コヒーラ受信機はみごとに電波をキャッチしたのである。

1895年夏、彼は実験の場を屋外に移した。
いくら成功したとはいえ数メートルの距離では実用にならない。
通信距離を伸ばしたかったのだ。

送信機と受信機のアンテナを長くし、それらを垂直に配置して、
一端を接地させると通信距離が大幅に延びた。
マルコーニのアイデア、アースの採用である。

まもなく彼は丘を越えての信号伝達に成功。
距離はすでに約1.5kmになっていた。
受信できた合図はアルフォンソによる銃声。
マルコーニは生涯この音を忘れることがなかった。


マルコーニは考えた。

ーこの通信技術を事業として発展させれば、
巨大なビジネスになるかもしれないー

1896年、22歳のマルコーニはイギリスへ旅立った。
イタリアでは彼の成果に興味を持つ者は少なかったし
世界一の海運大国であるイギリスでならば
きっと需要があるにちがいない、と考えたのだ。

マルコーニはイタリア語だけでなく、母親の影響で英語も流暢に話した。
これは彼にとって大きな幸せをもたらしたといえる。

イギリス滞在は成功だった。
マルコーニは郵政省技師長のウィリアム・プリースと知り合うことができた。
彼はマルコーニに興味を持ち、支援を約束してくれた。

1897年3月2日、マルコーニの論文
「電気パルスと信号の伝送技術の改良および関連機器」が
特許を取得する。
またこの頃、郵政省職員ジョージ・ケンプと知り合う。
ケンプはマルコーニにとって有能な助手であり
また終生の友人となった。

1897年5月13日、マルコーニは世界初の海を越えての無線通信に成功する。
ウェールズラバーノック岬から
ブリストル海峡フラットホルム島までの約6kmである。
受信設備はすぐにフラットホルム島からブリーンダウン要塞に移設され、
距離は16kmに伸びた。
この実験に感銘を受けたプリースは、ロンドンで講演を行い
マルコーニの業績を一般に知らせた。


だが必ずしも順風満帆だったわけではない。
無線通信は、天候や時間帯によって受信状況に大きな影響をうける。
また複数の無線が交信されると、混信することも分かってきた。
マルコーニは周波数を同調させることで
これらの問題が解消されると考え、機器に改良を加えていった。

その後も公開実験を繰り返し、
マルコーニは国際的に注目されるようになっていった。

1897年7月、イタリアに帰国してイタリア政府向けの公開実験を行った。

1898年7月6日には、北アイルランドバリーキャッスルラスリン島の間で実験を行った。

1899年3月27日、
ドーヴァー海峡を横断する無線実験を行い成功する。
フランスのウィムルー村と、
イギリスのサウスフォアランド灯台とを無線で結びつけたのだ。


マルコーニはまだ壮大なことを考えていた。

ー大西洋横断電信ケーブルのように
大西洋を横断して無線で信号を伝えることができないだろうか。
そうすればどの場所の海難事故でも、
近くの船や港にSOSを発信することができるはずだー

 

(続く)


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