ミントの人物伝その80−2〔第768歩〕

1590年(天正18年)、小田原征伐ののち、天下人となった豊臣秀吉の命で
家康が関東に移封される。
関東入府に際して、家康は忠次ら4人の「関東代官頭」を任命したが、
中でも一番家康に信頼されていたのが忠次だった。

1591年(天正19年)、忠次は武蔵国小室(伊奈町)に一万石を賜り
備前守を名乗るようになる。
ついに彼は流浪の身から大名となったのである。


1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦い
天下分け目の戦いに勝利した家康は、江戸に幕府を開く。

家康は江戸を国政の中心にしようと考えたのだ。
その家康の意向を実現するためには課題が山積みだった。
関東にはまだ北条の遺臣たちがいたし、土豪や寺社もまだ力を持っていて
無理にことを行うと、これらの勢力が反乱を起こすおそれもあった。

実務能力に優れた忠次は、小室に陣屋を構えて、
徳川氏直轄領の内、百万石の実質的な行政を任されることになった。
主な仕事は伝馬制度の整備、新田開発、治水、民政、農政などであった。

とくに重要な仕事は
一、検地により土地と石高を測量し
  徳川家臣団や土豪、寺社の地行割(給与の確定)を実施する。
二、灌漑や河川改修により新田を開拓し、生産力を向上させる。

この二点であった。

水戸藩の低湿地では千波湖の氾濫や、
日照りによる旱害(かんがい)に悩まされていた。
忠次は水戸藩と図り、治水工事に取り組むこととなった。
難工事ではあったが
1610年(慶長15年)に『水戸備前掘』が完成する。
結果、付近の多くの水田を潤すこととなり、その恩恵は21ヶ村に及んだ。

また信州上田から職工を招いて結城紬を名産にするなど
殖産興業策を積極的に行ったという。

住民から神のようにあがめられた忠次だったが、
いつしかこういわれるようになった。
関八州は忠次によって富む」


1610年(慶長15年)、伊奈忠次死去、61歳。
苦労の多かった前半生とくらべ
非常に多忙ではあったが、充実した後半生だったといえるだろう。


(了)


(参考文献)
Wikipedia
戦国武将のリストラ逆転物語、他
画像はWikipedia、Web から借用いたしました。


[平成29年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20171231


[平成28年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20161231


[平成27年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20151231


[平成26年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20141231


[平成25年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20131231


[平成24年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20121230


[平成23年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111231


[平成22年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111230


[人物伝]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20140930


[YAMAPの記録]
https://yamap.co.jp/mypage/199626



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