ミントの人物伝その83−1〔第794歩〕

夢を追い続けた人物です。

ミントの人物伝(その83−1)

ロアール・アムンセン(1872- 1928)。
探検家。

産業革命を経て、西欧諸国は
十九世紀から本格的に探検の時代に入る。
人々はあくなき探求心を持ち、「一番乗り」の名誉を求めて
未知の世界を目指すようになった。

フリチョフ・ナンセンという男がいた。
ノルウェーの探検家である。
彼は1888年から翌年にかけて
スキーを使い、グリーンランド横断に成功した。

また1893年の探検では、
400トンのフラム号に乗り北極点を目指した。
このときは北緯86度13分の地点まで到達している。


アムンセンもまたノルウェー東南部のボルゲで生まれたが
16歳のとき、ナンセンの「グリーンランド横断」に感動し、
自分も探検家になり北極を目指したいとつよく思った。

だがアムンセンの母は、彼が医師になることを望んだ。
そこで一旦は医科大学に進み、医師を目指していたが
どうしても夢をあきらめることは出来なかった。

1893年、21歳の時に母が没すると
アムンセンはついに決心した。
大学をやめて船員になることにしたのである。

探検家になるため体力をつけようと
兄のレオンと二人で
ノルウェー高地の冬季横断をこころみることもした。

アザラシ漁船に船員として乗り込み経験を積んだあと
1897年から1899年にかけて
ベルギーの探検船ベルギカ号の航海士となって、南極探検隊に参加した。

だが乗っていた船が流氷につかまり立ち往生。
氷に閉じ込められたままの越冬を体験する。
極地の冬の寒さは想像を超えるものだった。

ー探検家になるんだ。これくらいで音(ね)をあげるわけにはいかないー

自国に戻ったアムンセンは、一層のトレーニングに励んだ。
それは空腹の状態で、スキーで長距離を走るという
非常に過酷なものだった。


20世紀の初頭において、大西洋側から太平洋側へ
アメリカの北側を回って航海する北西航路は、
ヨーロッパとアジア間の最短航路になりうると考えられていた。

この「北西航路」は過去、ヨーロッパの多くの航海者が挑戦してきたが
氷に阻まれ、それまで誰も成功していない。
19世紀に入ってもイギリスのジョン・フランクリン率いるイギリス艦隊が
カナダ北方で全滅するなど多くの犠牲者を出してきた。

アムンセンは、北極点到達の前に、
この「北西航路」への挑戦を決心した。
だが資金がない。

そこでアムンセンは
すでに探検家を引退していたナンセンに会い援助を要請した。
幸いにもアムンセンはナンセンに気に入られ、
快く資金援助を得ることが出来た。

このときナンセンのグリーンランド横断の話も出た。
「アムンセン。雪原を移動するときには
犬ぞりが有効だが、スキーも使うといい」

なるほどとアムンセンは思った。
確かにスキーは機動性に優れているし、犬たちの負担も減らせるだろう。

フリチョフ・ナンセン


いよいよアムンセンが
探検家として第一歩を踏み出すときがきた。

アムンセンはベルギカ号の経験から
探検には周到な準備が不可欠であることもよく分かっていた。
まずは船である。

1903年、アムンセンは47トンの蒸気機関付き帆船「ヨーア号」を買い入れた。
古いが頑丈だし、船体が小さいので北カナダの狭い水路でも操作できると
考えたのである。


ナンセンらに見送られて、6人の乗組員とともに
1903年6月17日、
クリスティアニア(現在のオスロ)から北西航路へと出航した。

ヨーア号

アムンセンは、東から西へ向かう航路を選んだ。
だがその航海は暴風雨に遭遇したり、座礁や船火事もあり
苦難の連続だった。

ときには航行を妨げる厚い氷をダイナマイトで吹き飛ばしながら
ゆっくりと進んだが、確実に冬が近づいてくる。

やがて船は流氷に取り囲まれ、移動がしだいに困難になってきた。

9月12日、キングウィリアム島西北部にある湾に投錨する。
うまい具合に風を防げる地形なので
ここで越冬したほうがよいと判断したのだ。

北西航路

冬の間もじっとしていたわけではない。
特別班を組んで水深を測って安全な航路を捜したり、
地磁気の研究を行ったりした。

結局この場所で2回越冬したアムンセンは
イヌイットたちと親しくなり、犬ぞりの使用法や獣皮の着方など
寒帯での生存術を学んだが、これはのちの極地探検に活きることになる。

1905年8月13日
解氷のためヨーア号はひとりでに氷を離れた。
アムンセンは乗組員に出発を伝える。

2年ぶりに越冬地を発したヨーア号は
ビクトリア島の南を航海する。

やがてカナダ北極諸島を抜け、ボフォート海へ出ることに成功。
難局を脱したかと思われたが、ハーシェル島近くでふたたび流氷に閉ざされ、
はからずも3度目の冬を越すことになる。

アムンセンは祖国と連絡をとりたいと思った。
自分たちが死亡していると思われているかもしれない。
だが電信所があるというフォート・ユーコンまでは700kmもある。

10月末、やはり近くで座礁していたアメリ捕鯨船の船長らと
2台の犬ぞりでフォート・ユーコンに向け出発した。
アムンセンは行程の大部分をスキーで進んだ。

ところがフォート・ユーコンに着いてみると
ここには電信機器がないことがわかった!
さらに南に400km先、フォート・エグバートにあるという。
アムンセンはやむなくただ一人、スキーで大雪原の中を進んだ。

1905年12月5日、
ついにフォート・エグバートに着き電報を打つ。
ーわれ北西航路横断に成功せりー

実際には、ベーリング海峡を通過するまでは、成功とはいえなかったのだが
債権者たちに早めに伝える必要もあったのだ。

ヨーア号に戻ったのは翌年3月末。
彼は5か月間、3,000km近くのほとんどをスキーで踏破したことになる。

1906年7月10日、氷を脱出したヨーア号は
8月30日にベーリング海峡を通過し、太平洋へ出ることに成功。

8月31日、アラスカ太平洋岸のノームに入港した。

「やったぞ!」

仲間たちと喜びを分かちあうアムンセン。
ときに34歳。
彼は史上初めて
北西航路横断航海を成し遂げた人間となった。


この探検は、科学的・民俗学的にも多くの成果をもたらしたので
イギリスの王立地理学会は
翌1907年に、アムンセンに金メダルを授与している。

アムンセンはあっという間に世界的な有名人になった。


(続く)


[平成29年の記録]
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[人物伝]
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[YAMAPの記録]
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