ミントの人物伝その84−1〔第805歩〕

この人物は魅力的です。
大河ドラマの主役の資格十分だと思います。

ミントの人物伝(その84−1)

北条氏康(ほうじょううじやす、1515- 1571)。
伊豆・相模国戦国大名

1515年(永正12年)、
後北条氏二代目当主・北条氏綱の嫡男として生まれる。
幼名は伊勢伊豆千代丸。

4歳の時に祖父・伊勢宗瑞(北条早雲)が死去。
早雲は一代で伊豆と相模小田原を切り従えた梟雄だった。

二代目氏綱は早雲のあとを継いで
着実に武蔵や下総の一部にまで勢力を広げてゆく。

なお氏綱のときから北条氏を名乗るようになった。
歴史上、「後」北条氏とも呼ばれる。
これは鎌倉執権家の北条氏と区別するためである。

1530年(享禄3年)、氏康は15歳で元服し、氏綱とともに
小沢原の戦いにおける初陣で上杉朝興と戦い、これに大勝する。

1535年(天文4年)8月、甲斐山中合に出陣。

この頃に、今川氏親の娘・瑞渓院(ずいけいいん)を正室に迎える。
この瑞渓院は、のちに北条が今川義元と対立するようになっても、
駿河に戻ることなく北条家を支えるのである。

1537年(天文6年)7月の河越城攻略に出陣して戦功を重ねる。

1538年(天文7年)の第一次国府台の戦いでは
父と共に小弓公方足利義明里見義堯(さとみよしたか)連合軍と戦い、
足利義明を討ち取って勝利を収めた。

1541年(天文10年)氏綱が死去する。
彼は死の直前に「五ヶ条の訓戒状」を残した。

一、大将から侍にいたるまで、義を大事にせよ。
一、武士から農民にいたるまで、全ての民を慈しむこと。
一、決して驕らず、へつらわず、身にあった分限を守ること。
一、倹約に勤めて重視すべし。
一、勝利はほどほどにせよ。


26歳の氏康が家督を継いで三代目当主となった。

しかし彼には早速大きな試練が立ちふさがる。
生き馬の目を抜く戦国時代なのである。

1545年(天文14年)、駿河今川義元が、
関東管領・山内上杉憲政や扇谷上杉朝定と連携し、
氏康に対し挙兵した。

義元は、北条氏綱に奪われていた東駿河を奪還すべく攻勢をかける。
氏康は駿河に急行するものの、北条勢は今川軍に押され
状況は不利であった。

その在陣中のことである。
関東では山内・扇谷の両上杉氏が大軍を擁して
一族である北条綱成(ほうじょうつなしげ)が守っている河越城
包囲した、という知らせが届いた。
東西から挟み撃ちにあった氏康は絶体絶命の危機に陥った。

まずは西側を収めるべく、
氏康は武田晴信(信玄)の斡旋により、義元との和睦を模索。
駿河の河東地域を義元に割譲することで和睦する。

しかし関東では、
両上杉氏に加え、氏康の妹婿である古河公方足利晴氏までもが
連合軍と密約を結び、河越城の包囲に加わっていた。

ー綱成、必ず助けるぞー

北条綱成は黄色に染めた練貫に、『八幡』と書いた旗を指物にしていた。
そして合戦のたびに、「勝った!勝ったぞ!」と怒号しながら
敵陣に突撃していたので、「地黄八幡」の勇将と称えられていた男である。
氏康の義弟であり、同じ歳の戦友でもあった。

氏康は河越城の救援に向かうが、敵が取り囲んでおり
手が出せない状態が続く。
なにせ約8万の連合軍に対し、氏康の北条本軍は8千しかないのだ。

河越城の籠城は約半年に及んだ。
守る綱成は、3千の城兵でよく攻撃に耐えている。

ー大軍に対するには奇襲しかないー

氏康は思い切った作戦にでる。

まず両上杉・足利陣に「奪った領土を返還する」との手紙を送り、油断を誘った。
そして翌1546年(天文15年)4月20日
氏康は城内の綱成と連携して、連合軍に対して夜襲をかけたのだ。
日本三大夜戦の一つとなる河越夜戦である。

敵は大混乱に陥った。
この夜襲で上杉朝定らは戦死し、扇谷上杉氏は滅亡した。
また上杉憲政上野国に、足利晴氏下総国に敗走した。

河越夜戦は、戦国時代にもまれな、約10倍の敵を打ち破った戦いとなった。


こうして氏康が勝利したことにより、関東の諸将は北条氏に臣従する流れとなり
この地域の主導権を確保することになった。


じつは危機は軍事面だけではなかった。
河越夜戦の後、しばらくは領地経営も混乱していたのだ。

特に1549年(天文18年)に関東で発生した大地震のときには、
領国全域で農民が田畑を放棄する逃亡が大規模に起こってしまった。


1550年(天文19年)4月、氏康は公事赦免令を発令する。
これは朱印状を発行して

・複雑な課税方式を単純化
・課税率を軽減化
・特定の賦役の廃止や免除
・過去設定されていた諸税を撤廃
・指定の債務を破棄

を行うというものである。
一種の徳政令である。

また、検地を行い税を平等化するとともに、税率を「四公六民」に変更して
農民の負担を軽減した。

そのほかにも氏康は

・領国内の度量衡を均等化
・目安箱の設置
・通貨の永楽銭への統一
・伝馬制の設置

などの政策を推し進めていった。
危機的状況はしだいに収拾してゆく。

もともと北条氏は早雲の頃から領民を大事にしていたが
氏康は、凶作飢饉の年には減税したり、年貢を免除することもあったため、
農民から非常に喜ばれたという。

氏康はあるとき家臣にこう語った。

「主将が官吏を選ぶのは当前だが、官吏もまた主将を選ぶものだ。
隣国との戦いにあけくれて、日頃官吏を大事にせず、また領民に慈悲をかけなければ、
官吏は良将を求めて仕えてしまうし、領民は他国に去ってしまうだろう。
官吏を愛し、領民を慈しむは主将の当然の務めである」


(続く)


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