ミントの人物伝その84−2〔第806歩〕

氏康は戦闘でも勇敢な武将でした。
生涯三十六度の合戦で一度も敵に背を見せず、
受けた傷は全て向こう傷だったといわれています。


ミントの人物伝(その84−2)


河越夜戦の後も、氏康の戦いは続いている。

1550年(天文19年)、上杉憲政の居城平井城を攻め、翌年に落城させる。
追い詰められた憲政は越後守護代長尾景虎を頼ることにした。

1552年(天文21年)7月に、長尾景虎の支援を得た憲政が
ふたたび武蔵北部まで押し寄せてきたが、氏康はこれを撃退している。


さて西の今川とはどうなったか。

先年の和睦はあったものの、今川との関係は依然として緊迫していた。
氏康は、正室の実家である今川とは、出来れば敵対したくはなかった。
また今後の上杉との争いを考えると、武田とも争うことは避けたい。

そう考えた氏康は
1554年(天文23年)7月、今川の太原雪斎の仲介などもあって
娘の早川殿を今川義元の嫡男・今川氏真に嫁がせ、
12月には、武田信玄の娘・黄梅院を氏政の正室に迎えることで、
武田・今川と同盟関係を結ぶ。
甲相駿三国同盟の成立である。

これで背後の駿河や甲斐が固まったことになり、
氏康は関東での戦いに専念できるはずだった。

しかし実際はこののち、
北条は領土を守るため防戦一方の展開となってゆくのである。
 

1559年(永禄2年)、氏康は次男の氏政に家督を譲って隠居した。
「永禄の飢饉」という大飢饉が発生していたため、
代替わりによる徳政令の実施を目的としていたのである。
しかし隠居後も、小田原城本丸に留まって「御本城様」として
実権を掌握しながら氏政を後見するという形に移行している。

後北条氏系図

この頃には、
上野国内の上杉方をほぼ降伏させ、領国化に成功した。


1560年(永禄3年)5月、今川義元桶狭間の戦いにおいて織田信長に討たれた。
これ以降、今川の勢力は衰退してゆく。

同年、上杉憲政から関東管領職を譲られた長尾景虎、改め上杉謙信
永禄の飢饉」の中の関東へ侵攻してきた。
上杉憲政を奉じ8千の軍勢を率いて
三国峠を越えた謙信は、上野国の北条方の諸城を攻略し
関東や奥州南部の大名・豪族に動員をかける。

上杉謙信

このとき上総国にて、里見義堯の本拠地である久留里城をとり囲んでいた氏康は、
包囲を解いて9月に河越に出陣、10月には松山城に入る。
その後、本拠地の小田原城に入城。籠城の構えをとった。

1561年(永禄4年)2月、謙信は松山城、鎌倉を攻略し
最終的に10万余りの連合軍を率い、相模に押し寄せた。
そして3月下旬ころまでに北条の居城・小田原城を包囲した。

上杉連合軍には、上野国の白井長尾氏、総社長尾氏、箕輪長野衆、沼田衆、
岩下斎藤氏、金山横瀬氏、桐生佐野氏。下野国の足利長尾氏、小山氏、
宇都宮氏、佐野氏。下総の簗田氏、小金高城氏。武蔵国の忍成田氏、羽生広田氏、
藤田衆、深谷上杉氏、岩付太田氏、勝沼三田氏。
常陸国では、小田氏、真壁氏、下妻多賀谷氏、下館水谷氏。安房国の里見氏。
上総国の東金酒井氏、飯櫃城山室氏といった面々に加え、
遅れて佐竹氏が参陣していた。ーWikipediaよりー

まさに絶対絶命の氏康。
だが氏康はそれまでに小田原の城の改築を繰り返し、
これを難攻不落の巨城へと変えていたのだ。

上杉軍の太田資正小田原城の蓮池門へ突入するなど攻勢をかけた。
だが小田原城の防衛は堅い。
北条軍は各地で兵站に打撃を与えて抗戦する。

城の包囲は一ヶ月に及んだ。
この当時関東では飢饉だったため、上杉方は食料調達もままならない。
次第に出兵を維持できなくなってゆく。

また謙信がはずみで同士であるはずの武将を打擲するなどの失敗を犯し、
諸豪族の心が離れたこともあって、佐竹氏らが撤兵を要求し、
一部の豪族は勝手に陣を引き払うなどの事態となっていった。

さらに氏康と同盟を結ぶ武田信玄が、信濃国川中島海津城を完成させ、
信濃北部での支配地を広げ謙信を牽制した。

やむをえず謙信は小田原城から撤退、鎌倉に兵を引き上げた。
そして3月に鶴岡八幡宮にて関東管領の就任式を行ったあと、
6月に越後国へ帰国している。

氏康はようやく危機を脱したのだった。

ただ以降の永禄年間、謙信は冬になると関東に侵攻したため、
氏康は、北条氏と上杉氏の間で離脱従属を繰り返す国衆の対応に追われることなる。


1564年(永禄7年)、
氏康は里見義堯・義弘父子と上総国などの支配権をめぐって
武蔵国国府台にて対陣する。
北条軍は兵力的には優勢であったが、里見軍は精強で一筋縄にはいかない。

1月8日の真昼間、浅瀬を選んで一気に川を渡り、奇襲を仕掛ける北条軍。
しかし、これを事前に察知していた里見軍はあっさりと攻撃をかわし、
この日の合戦は里見の勝利に終わる。

しかし、その夜の事だ。

国府台の陣にて勝利の美酒に酔いしれる里見軍に対して、
北条軍は闇に紛れて、その国府台を取り囲む。

翌日早朝、北条軍は里見軍に一気に総攻撃を仕掛ける。
完全に油断していた里見軍は大混乱。
敗れて安房国に撤退した。

これを第二次国府台の戦いという。

同年、里見氏の同盟となった太田資正を、その息子氏資と謀って岩付城から追放する。
これで氏康は武蔵の大半を再び平定したのだった。


1565年(永禄8年)と翌年にかけては
氏康が関東において優勢に戦いを進めた年だった。

この頃から氏康は息子達に多くの戦を任せるようになる。

1567年(永禄10年)、氏康は息子の北条氏政・氏照に里見氏攻略をまかせ、出陣させる。
しかし、氏政は里見軍に裏をかかれて大敗。
北条は上総南半を失った。

ーまだまだ楽隠居をきめこむことはできぬなー

そう氏康は思った。


(続く)


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