ミントの人物伝その85−1〔第810歩〕

自然と野生動物を愛した人物です。


ミントの人物伝(その85−1)

アーネスト・トンプソン・シートン(Ernest Thompson Seton、1860-1946)。
イギリス出身の博物学者、作家、画家。


アーネストはイギリスのサウスシールズで、
12人兄弟の末っ子として生まれた。

父のジョセフは海運会社を経営していたが、事業の失敗から、
アーネストが5歳の時にカナダ、オンタリオ州リンゼーに移住した。

ジョセフは丸太小屋つきの森を手に入れ、家族は開拓農場を営むが、
幼いアーネストはカナダの大自然にふれて大喜び。

ジョセフは森の開拓などをしていたが、もともと不向きな仕事だったのだろう。
体調を崩したため4年後トロントに移り、会計士の仕事を始めた。

家族は都会生活を歓迎したが、アーネストは自然の楽園を失ったことに失望する。

アーネストはアメリカ先住民の生活にあこがれた。
先住民のまねをして家の床下に穴を掘ったところ、家が傾いてしまい
叱られたこともあった。
子供のころのアーネストは相当やんちゃだったようだ。

また、自然の中でも暮らしたいと思い
トロントのドン川の谷の森で秘密の小屋を作ったりもした。
そしてオンタリオ湖に流れでる河口の沼沢地で
さまざまな生物に出会っているうちに元気を取り戻していく。


高校に入学したシートンは、博物学者になる夢をもち猛勉強をする。
トップの成績をおさめるが体をこわし、母のすすめに従いリンゼーで療養する。

かつて過ごした開拓農場に戻ったアーネストは、みるみる元気になる。
そしてキャンプ生活を通じて森の暮らしの技術(ウッドクラフト)を身につけていく。

高校生のアーネストは、ある日シカ狩りに出かけたとき
先住民のハンター、チェスカと出会い
彼から野生動物のことを多く学ぶ。

このことで
アーネストはチェスカ、そして先住民に深く尊敬の念をいだくようになる。
それは終生変わることはなかった。

高校を卒業したアーネストは博物学を志すが、
ジョセフの反対にあってしまう。

「おまえは絵の才能があるようだ。学者なんかより絵描きになって
食い扶持を稼げ」

ジョセフは家族に対しては「暴君」のような存在だった。
日曜日には家族に宗教的な勤めを命じた。
また子供たちが読んでいい本はキリスト教に関する本だけ、
少しでも反抗的すれば体罰が待っていた。

そして少し変わってもいた。
のちにアーネストが成人したときのことだが
ジョセフはアーネストに、彼が生まれて以来の育英費用の明細書を見せ、
537ドル50セントを返済するように求めたという。
中には病院の薬代やミルク代まで含まれていたというからすごい。


仕方なく父の薦める画家の道を歩み始める。
昼間は肖像画スタジオの助手として働き、夜はオンタリオ美術学校に通った。

アーネストは絵を描く才能がたしかにあった。
彼はオンタリオ美術協会の最優秀賞を授与され、美術学校も優秀な成績で卒業した。
その頃から自身の好む、動物を題材とした絵がとても得意だったという。


1879年、絵の勉強をするために単身イギリスに渡り、
ロンドンにある絵画の名門、ロイヤル・アカデミー絵画彫刻学校に入学する。

そこで一旦は諦めていたアーネストに
再び博物学者を志すきっかけとなる出来事があった。
大英博物館との出会いである。

シートンゆかりの地1

当初、大英博物館へ足を運んだのは、
ロイヤル・アカデミーの入学試験の課題である絵を描くために
名画を見に行くのが目的だった。

大英博物館には図書館がある。
そしてそこにはアーネストの興味を引く博物学書が沢山あったのだ!

だが当時の図書館は、21歳未満は入館することができない決まりになっており
19歳のアーネストは入館することができなかった。

だがあきらめきれないアーネスト。
図書館長より、イギリス王太子や、イングランド国教会大主教、首相の許可があれば
21歳未満でも入館できる、と教えてもらう。

いてもたってもいられないアーネストは、だめ元で三者に手紙を書く。
熱意が通じたのか、幸運にも三人から返事が返って来て、
図書館長から一生涯使えるパスを手に入れることができた。

こうしてアーネストはそれから毎日、昼は博物館で絵を描き、
夜は10時に図書室が閉館するまで、博物学の本を読み漁った。

本であらためてアメリカの自然が、ヨーロッパの自然とはまるで違うことを知り、
アメリカに戻りたいと願うようになる。
ついにはホームシックになり、栄養失調になったこともあり、
母に呼び戻されてトロントに帰る。


帰郷後しばらくして、アーネストは体調が回復した。
父から借金の返済を迫られたのはこの頃だ。
さぞかし驚いたことだろう。

成人後のアーネストだが、以降はシートンと書くことにする。

カナダ北西部マニトバ州で自営農場をつくっていた兄アーサーの元に行く。
兄の元で農場の手伝いをしながら、森林や草原に現われるさまざまな動物を観察、
スケッチをし、開拓者としての生活をおくる。

快適な日々だったが、いつまでも兄の厄介になるわけにはいかない。
父への借金もある。
今のシートンには絵で稼ぐしかなかった。


シートンニューヨークで働くことを決心した。

1883年、ニューヨークの出版社で動物の絵を書く仕事を始めた。
その絵が『センチュリー誌』美術部長の目にとまり、スミソニアン博物館の鳥類学者や
動物学者クリントン・メリアムに才能を認められて、論文用の絵の依頼を受けるようになった。


だがシートン大自然への憧れを抑えることができなかった。
仕事をやめてカナダに戻ってしまう。
兄の牧場で動物たちと暮らし、観察する毎日。
シートンにふたたび幸せな日々がやってきたのである。

ー私はやはり自然の中で生きるのが性に合う。
本当は博物学者になりたいのだがー


1885年に再度ニューヨークやワシントンで絵を描いて
まとまった金を手にするが、翌年ふたたびマニトバに戻っている。

1887年、ほかの兄が経営するオンタリオ湖畔の自然公園の支配人になる。
シートンはここで2年間滞在した。

このとき彼は、物語を書いてみようと思い立つ。
人々に野生に生きる動物のたくましさや素晴らしさを伝えたい、と考えたのだ。
そして自分の体験や知識を活かし、いくつかの作品を書きあげ
雑誌に発表した。


やがてこの自然公園は経営不振になり売却されたが
シートントロントに少しほかの土地を持っていたので
それを売却し、父へ借金を返済することができた。

この頃シートンの絵は売れてきていた。
しばらくは動物のさし絵画家としての生活が続く。


1893年、33歳のシートンの元に知り合いのアメリカの実業家から
「牧場の牛が狼に襲われて困っている。動物に詳しい貴方に助けて欲しい」
との手紙が来た。

ーなぜハンターにではなく自分に助けを求めるのだろうー

シートンは不思議に思いながらもニューメキシコへ向った。


(続く)


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