ミントの人物伝その85−3〔第812歩〕

彼は「自然保護の父」とも呼ばれていますが
世界的に有名なあの活動にもたずさわっていたのです。


ミントの人物伝(その85−3)

シートン人間は野生動物たちと共存してゆくべきだ、と考えていた。

しかし動物たちを拘束する「動物園」のあり方には反対していた。
「野生動物たちが自然に暮らせる公園」ができないだろうか。

そのためには、まずふさわしい場所が必要だ、
そう考え、ニューヨークの近くで気に入った土地を買い求めた。
そこには森や草原、小川があった。

シートンは動物たちを守るため、土地を垣根で囲い、
人が入れないようにした。
私設動物保護区の誕生である。

ところが・・。

近所の少年たちが、垣根を壊して敷地に入って動物たちを殺したり、
壁に落書きをするようになった。

ここはもともと彼らの遊び場だったのだ。

いくら注意してもいたずらは止まない。
シートンは悩んだ末に思いついた。

ーそうだ、ここを少年たちに開放しよう。
そして先住民の知恵や生活を学ばせ、自然のすばらしさを体験させるんだ。
そうすれば彼らも意識が変わってゆくかもしれないー

「わたしの敷地でパーティーとゲームをやらないか?」

シートンは少年たちを招いて食事をふるまい
ゲームのルールを説明する。

「ゲーム」はじつは、それまでになかった全く新しい教育方法だった。
マッチを使わない火のおこしかたや、キャンプの方法、食用になる植物の見分け方など
グループの仲間たちで競うというものだ。
少年たちは楽しく自然とふれあいながら、おたがい協力し合うようになっていく。

シートンは自信を深めた。
子供たちにこの教育方法をほどこせば、彼らはやがて規律を重んじる大人に、
そして自然や動物を大切にする大人に育っていくのでないか。

彼はこの教育方法に基づいた活動をウッドクラフト活動と名付けた。

シートンゆかりの地2

1902年、ニューヨークに近いコネティカット州で少年キャンプを行い、
ウッドクラフト・インディアンズという少年団を創設し、
ウッドクラフト活動の本格的な普及をはじめた。

シートンはさらにこの活動をイギリスで普及させるため、
軍人で青少年教育に関心の深いロバート・ベーデン・パウエルに手紙と著書を送った。
これがのちに、パウエルがボーイスカウトを発足させる大きなきっかけとなる。

ロバート・ベーデン・パウエル

1909年、コネティカット州グリニッジに移り住む。

この頃ウッドクラフト活動は、ウッドクラフト・リーグとして各地に広がっていた。
北米大陸では約20万人の子どもたちが参加する規模となり、
ヨーロッパ各国でも、次々にウッドクラフト・リーグが創設されつつあった。
そしてまもなく、この活動はボーイスカウト活動へと継承されるのである。

1910年、シートンは米国ボーイスカウト連盟の理事長を務めることになった。

だが5年後、他の指導者との意見の食い違いから袂(たもと)を分かつことになる。

イギリスで生まれたボーイスカウト運動は、
いつしか子どもたちに国家意識を植えつける教育活動になっていたのだ。
この方針に反対のシートンは、連盟の中でしだいに孤立し、
やがてカナダ国籍を理由に除籍されることになったのである。

落胆したシートンだが、ウッドクラフト運動の再建に力を入れる。


1923年、娘のアンが結婚。
ちなみに彼女は後に作家となり、多くの歴史小説を発表することになる。

シートンは娘の結婚を機に、色々あったアメリカ東部を離れる決意をし、
ニューメキシコ州で土地を探し始める。
かつて狼王ロボと対決した思い出の場所に、終(つい)の住み家を定めよう
と考えたのだ。

1924年、オタワのカナディアン・クラブで野生生物の保護を訴える。
彼の講演は人々の心を打った。

またこの年発表した『狩猟動物の生活』四巻
動物学の研究書として高く評価され
バローズ・ゴールドメダルエリオット・ゴールドメダルを受賞する。

シートンは喜んだ。

ーようやくわたしも博物学者として認められたのだー

1926年、シートンにさらに嬉しいことがあった。
米国ボーイスカウト連盟よりシルバー・バッファローを授与されたのだ。
連盟がシートンに敬意を示したことにより
彼は11年ぶりにボーイスカウトに復帰することになった。


1930年、ニューメキシコ州サンタフェ
2500エーカーの土地を購入し、建物を建て移り住む。
そしてその翌年、正式にアメリカ国籍を取得する。

のちに「シートン城」と呼ばれることになる自宅建物は、
アメリカ中西部にかつて住んでいたプエブロ族の家のように、
屋根が平らで、赤土の壁、四角の形状をしていた。

妻のグレースとは、以前よりすれ違いの生活が続いていたが、円満離婚し
1936年、秘書としてシートンを支えてきたジュリア・バトリーと再婚する。
シートンこのとき76歳。

その後も「インディアンの知恵の大学」を開催したり
精力的に著作活動を続けた。


1946年8月の誕生日に、ニューメキシコ大学で最後の講演をし、
同年10月、シートン城にて死去する。

アーネスト・トンプソン・シートン、86歳の生涯だった。


彼のカナディアン・クラブでの講演がきっかけとなり、それ以降、
北米各地で数多くの「野生生物の保護区」が誕生してゆくのである。


(了)


(参考文献)
Wikipedia
シートンの伝記」藤原英司
サイエンスチャンネル「偉人たちの夢」
Web他 
画像はWikipedia、Web から借用いたしました。


[平成29年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20171231


[平成28年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20161231


[平成27年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20151231


[平成26年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20141231


[平成25年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20131231


[平成24年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20121230


[平成23年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111231


[平成22年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111230


[人物伝]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20140930


[YAMAPの記録]
https://yamap.co.jp/mypage/199626



コメントは、ブログ運営者(ミント)が確認後に公開されますので
よろしくお願いします。