ミントの人物伝88〔第870歩〕

それほど知名度はありませんが

とにかく強かったある武将の話です。

 

*ミントの人物伝88


毛利秀包(もうりひでかね、1567-1601)、

戦国・安土桃山時代にかけての武将。 

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1567年(永禄10年)、毛利元就の九男として生まれる。

幼名は才菊丸。

 

このとき毛利家は中国十か国の太守である。

すでに元就の長男である隆元は死去していたが、

次男が吉川元春、三男が小早川隆景で、毛利の両川(りょうせん)として

活躍していた。

1571年(元亀2年)、備後の国人である大田英綱が死去したため

大田氏の後継者となり、大田元網と名乗る。

 

1579年(天正7年)、兄である隆景の養子となる。

隆景は智将として知られた人物だが、子供がいなかった。

隆景が元網を養子としたのは、元網の母親が小早川の一族だったことと、

元網が父の武勇を吉川元春と並び、最も受け継いでいたためだ、

と言われている。

 

元服した後は小早川元総(こばやかわもとふさ)と名乗っていた。

 

1583年(天正11年)、人質として大坂の羽柴秀吉の下に送られた際に

「秀」の字を賜り、小早川秀包(ひでかね)と改名する。

 

秀包は容姿も秀でていたとされ、秀吉に優遇された。

だから人質でありながらも、その行動は制限されたものではなかった。

 

1584年(天正12年)、小牧・長久手の戦いに出陣。

1585年(天正13年)1月河内で1万石を拝領ののち

同年3月、紀州雑賀征伐に参戦。

そののち四国征伐で、高尾城の花房親兵衛を自ら討ち取り

また伊予金子城を攻略した功により伊予にて3万5千石を与えられる。

 

1586年(天正14年)から始まった九州征伐では

養父の隆景に従って豊前小倉城や宇留津城を攻めた。

また香春嶽城を攻める際は激戦となった。

鉄砲術にも長けていた秀包は、自ら鉄砲隊を率い一番乗りの戦功を挙げ、

敵将三人を討ち取って城門を破る大活躍をした。

  

筑後の豪族草野鎮永が秀吉に謀られ、木塚の里で自害したあと

戦後に隆景が筑前筑後を領すると、秀包は筑後3郡7万5千石を領した。

1587年(天正15年)に久留米城を築いて居城とした。

 

肥後国人一揆の討伐軍総大将として出陣した際に

立花宗茂と意気投合し、義兄弟となる。

この2人はともに、羽柴氏そしてのちに豊臣姓を下賜されることになる。

 

立花宗茂

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1589年(天正17年)7月13日、侍従に任官される。

以降、秀包は「羽柴久留米侍従」と呼ばれるようになった。

 

久留米を居城とした後

大友宗麟の娘を妻として受洗をうける。洗礼名はシマオ。

以後はキリシタン大名となる。

 

1592年(文禄元年)3月、文禄の役が始まる。

秀包も朝鮮に出兵し、大鼓城の攻城で戦功を挙げ

碧蹄館の戦いでは隆景、立花宗茂と共に明軍を撃破する。

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文禄の役は翌年に一旦終了するが、秀包はこれらの戦功により

筑後久留米のまま5万5千石を加増されて13万石となり、

筑後に叙任されている。 

 

1594年(文禄3年)、

秀吉の養子である木下秀俊が隆景の養子となったため、

秀包は廃嫡されてしまう。

この木下秀俊こそのちの小早川秀秋である。

これは隆景を取り込もうとした秀吉が、無理に押し付けた縁組だった。

隆景夫婦の本意ではなかったが、秀包はやむを得ぬことと理解し

別家を創設した。

 

小早川秀秋

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1597年(慶長2年)1月から始まる慶長の役においても参戦。

竹島城と星州谷城で防戦し、大いに手柄を立てた。

 

ところでこの年7月、

秀包の兄であり養父でもあった小早川隆景が亡くなっている。

毛利の智将と称えられた彼の死は

秀包だけでなく毛利家にとっても不幸なことだった。

 

1598年(慶長3年)11月、秀吉が死去する。

朝鮮に派遣されていた日本軍に撤退命令が下ったが、

順天倭城で小西行長らが海上封鎖を受け撤退を阻まれていることを

知ると、秀包は立花宗茂らと共に水軍を編成して救援に向かい、

李舜臣の朝鮮水軍、明水軍と戦った。

露梁海戦(ろりょうかいせん)。慶長の役最大の海戦である。

 

このとき秀包は、自ら愛用の鉄砲を持って戦ったという。

李舜臣はこの戦いで戦死、日本側にも被害があったが

結局、小西行長軍はこの戦いの最中に

巨済島への撤退に成功している。

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1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いでは西軍に加わる。

秀包にすれば、東軍の家康に加担することは

太閤秀吉に受けた恩を仇(あだ)で返すことだったのだ。

8月に大坂城玉造口を守備し

9月3日には京極高次の籠る大津城立花宗茂らと共に攻め、

これを落城させた。

ところが・・

 

小早川秀秋が裏切った?」

 

秀包は耳を疑った。

秀秋の内応により関ヶ原の情勢は逆転したという。

西軍が敗れたため、秀包は大津城を撤退して大坂城に帰還する。

 

この時、国元でも戦いが起こっていた。

10月14日に久留米城黒田如水鍋島直茂率いる3万7千の軍に

攻撃を受ける。

結局は開城勧告に応じて城を明け渡した。

 

関ヶ原の戦い後は改易されるが、

毛利輝元より長門国内に所領を与えられる。

 

ー是非なしじゃ、悔いはないー

 

その後、小早川姓を捨てて毛利姓に復し、

大徳寺で剃髪、玄済道叱と称した。

合戦中に裏切りを行った小早川秀秋に対する当時の世評は、

決して芳しいものではなかった。

毛利への復姓は、「小早川」への謗り(そしり)を避けるため

だったのである。

 

長門に帰国後は体調が悪化し

1601年(慶長6年)に35歳で病没する。

勇敢でほとんど負けを知らない武将だったが、

最後は不運だったといえよう。

 

なお嫡男の元鎮は吉敷毛利家の始祖となっている。

 

(了)

 

関ヶ原のとき小早川隆景が生きていれば何を考え

小早川秀秋毛利秀包はどう行動したでしょうか?

想像してみると面白いですね。

 


(参考文献)

 Wikipedia

 Web他 

 写真や画像はWikipedia、Web から借用いたしました。

 

 

[平成30年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20181231


[平成29年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20171231

 

[平成28年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20161231

 

[平成27年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20151231


[平成26年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20141231


[平成25年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20131231


[平成24年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20121230


[平成23年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111231


[平成22年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111230


[人物伝]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20140930


[YAMAPの記録]
https://yamap.co.jp/mypage/199626

 


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