ミントの人物伝89②〔第878歩〕

クックは生涯に3回の探検航海を行いました。

ロマンあふれる人物です。

 

*ミントの人物伝89②

 

クックは、金星の太陽面通過(トランシット)を観測せよ

との指令を受け 

1768年7月30日にイギリスのデトファドを出帆する。

 

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目的地はタヒチ。天体観測が目的だが、

じつはクックは王立協会からの秘密指令を受け取っていて、

それは天体観測が終了したのち開封することとされていた。

 

エンデバー号(レプリカ)

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マデイラ諸島リオデジャネイロに寄港したのち

南米大陸南端のホーン岬を東から西に通過、太平洋を横断し

1769年4月13日、タヒチに到着した。

 

ここでクックたちは天体観測を行った。

金星の太陽面通過の観測である。

観測の目的は、金星の太陽からの距離をより正確に算出するためだったが

実際は観測器具の解像度が不足で、期待したような正確な観測結果では

なかった。

 

天体観測が終了するとすぐに、

クックは航海の後半についての秘密指令開封した。

それは、

「伝説の南方大陸(テラアウストラリス、Terra Australis)を求めて 

南太平洋を探索せよ」

というものであった。

 

それまで南太平洋には、巨大な大陸があるのではないか

と考えられていた。

 

かつてオランダ人のアベル・タスマンという探検家がいた。

1642年にニュージーランドタスマニア島を発見し、

1644年にニューギニアニューホランド(オーストラリア)の

北沿岸を探検していたが、詳しい測量はできていなかった。

測量は「領土の確定」に結びつく行為だから非常に重要なのだ。

 

アベル・タスマン 

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タスマン以降、100年以上も南太平洋は未知の海域だったのだ。

金星観測を隠れみのにして南方大陸を発見すれば

英国はライバルのヨーロッパ諸国を出し抜いて

莫大な富を手に入れることができるかもしれない、

と王立協会は考えたのである。

ただ協会は、南方大陸はオーストラリアの南にある

考えていたようだ。

 

南太平洋の地理に詳しいタヒチ人、トゥピアの助力を得て、

1769年10月6日、クックはヨーロッパ人として史上2番目に

ニュージーランドに到達した。

 

タスマンも発見はしたが上陸はしていないので、

ニュージーランドに上陸したヨーロッパ人はクックが始めてである。

また彼はニュージーランドの北島と南島を分ける海峡を発見した。

クック海峡である。

 

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クックは南に進んだ後、ダスキー湾を越えて南島の西側を北上。

これでニュージーランドは、南方大陸につながっていないことが

分かった。

 

次にクックは航路を西に取り、タスマニアを目指した。

今度はタスマニアが南方大陸の一部をなしているのか、を

確かめようと考えたのだ。

 

しかし、エンデバー号は暴風で北寄りに流され、そのまま航海。

1770年4月19日、クックたちは広大な陸地を発見する。

どうやらオーストラリアらしい。

 

陸地を見ながらクックは考えた。

 

ーどうやらこの海岸線は南西に伸びているようだ。

タスマニアはここより南のはずだから

この陸地はタスマニアにつながっているかもしれないー

 

じつはこの場所はオーストラリアの南東海岸だった。

現在のシドニーより南に位置し

後にクックがヒックス岬命名する場所である。

 

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その後エンデバー号は海岸線に沿って北上を続け、

クックは測量と陸標の命名を次々に行った。

1週間余り過ぎた頃、一行は大きな浅い入り江に入り、

砂丘に覆われた低い岬の沖に停泊した。

多くのエイが見られたために、その入り江はクックによって

アカエイ湾と命名されたが、のちにボタニー湾(植物学湾)となった。

 

4月29日に、クック一行は入江からオーストラリア大陸に上陸する。

現在ではカーネルとして知られている場所である。

 

このときにクック一行は、先住民のアボリジニ接触している。

 

 クックたちは航海中に、さまざまな先住民と出会っているが、

そんなときは彼らから豚や野菜、水などの食料をもらい、

かわりにビーズ玉や釘、ナイフや手斧を渡す交易をしている。

ときには敵対的な原住民と小ぜり合いになることもあったが、

先住民を迫害したり収奪することはなかった。

 

海岸線を測量しながらクックは北へ船を進めた。

 

1770年6月11日、アクシデントがおこった。

現在のクックタウンの近くの浅瀬に

エンデバー号が乗り上げてしまったのだ。

船が大破したため砂浜で修理が行われたが、その間

クックたちはオーストラリアの植物の大規模な採集を行った。

 

途中で一行はふしぎな動物を見つけた。

動物の名前を聞かれた現地人のアボリジニ

gangurru(知らない)と答える。

かくして一行はその動物を"gangurru" と呼ぶようになり、

やがて「カンガルー」が英語の仲間入りをした。

 

カンガルー

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エンデヴァー号の修繕を終えると直ちに航海は続けられ、

8月、クック一行はヨーク岬の北端を通過する。

 

オーストラリアとニューギニアが陸続きでないことを確認すると、

クックはオーストラリア東北海岸をニュー・サウス・ウェールズ

名付け、英国領有を宣言した。

 

その後、一行は艦の修繕のためにバタヴィアへ向かった。

だがバタヴィアではマラリア赤痢が猖獗(しょうけつ)をきわめて

おり、そのため多数の船員が罹病し

1771年に一行が帰国するまでに、多くの者が亡くなることになった。

 

喜望峰セントヘレナ島を経て

1771年7月12日、エンデバー号は南イングランドのダウンズに帰還。

帰国するとクックは一躍、時の人となった。

 

(続く)

 

 

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