ミントの人物伝90〔第887歩〕

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あるとき近江国にある瀬田の唐橋に大蛇が横たわっていた。

そのため人々は恐れて橋を渡ることができない。

そこに大弓を携えたひとりの男がやってきた。

彼は大蛇をみてもたじろがず、踏みつけて橋を渡ってしまった。

大蛇は美しい女に姿を変えた。

そして、いうには

「われらは龍神一族ですが、三上山にすむ大百足(大ムカデ)に

仲間をさらわれ苦しめられております。

あなたのような勇者をお待ちしていたのです。

なにとぞ大ムカデを退治していただけませんか」

頼みを承知した男は三上山に出向く。

なるほどそこには大ムカデがいて

三上山を七巻き半してトグロを巻いている。

男は大弓をつがえてひょうと射た。

だが一の矢、二の矢は硬い皮膚にはね返されて通用しない。

そこで男は唾(つば)に魔除けの作用があることを思い出し

三本目の矢には唾をつけてムカデの頭に向けて射ってみた。

すると見事にその矢は硬い皮膚を突き破り

大ムカデを倒すことができた。

龍神一族は大喜び。

男は一族からお礼として、米の尽きることのない俵や

使っても尽きることのない巻絹などの宝物を贈られたという。

その男とは・・

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*ミントの人物伝90

藤原秀郷(ふじわらのひでさと、891?-958?)

別名、俵藤太(たわらのとうた)。

平安時代の貴族、武将。

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秀郷は朝廷の最高位を独占する藤原北家の一族だったが、

その支流の出であったため、中央にいても出世は望めなかった。

やがて秀郷は、配流されたとの説もあるが、下野の官人となり

その武名をもって近隣諸国に知られる存在になってゆく。

 

彼は膂力にすぐれ、五人がかりでないと引けない強弓を

一人で引くことができたという。

 

平将門(たいらのまさかど)という男がいた。

彼は武勇に秀でた関東の武者で、

名声と実力を蓄えていたので豪族たちの争いの仲裁を頼まれ、

それを鎮める役割を担っていた。

 

ところが939年(天慶2年)11月、

将門はあるもめごとの仲裁のすえに、常陸国府を占拠し、

国司を捕える事件を起こしてしまう。

 

すると関東に下向していた皇族の一人が

「いっそのこと関東八州を支配し、独立王国を作っては

いかがでしょう」と将門をそそのかした。

 

将門はその気になった。

新皇という称号を用い、関東で独立を宣言したのである。

 

将門は関東各地の豪族に、味方するようにと呼びかけた。

このとき秀郷は、将門はどれほどの人物なのかと気になり

会いに行ったが、将門が軽率な人物だと見抜き、

協力するのをやめてしまったという。

 

秀郷と将門

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将門を討伐すべく、まず立ち上がったのは

常陸平貞盛(たいらのさだもり)だった。

貞盛は将門の従兄弟だったが、父親の平国香が将門と争い

殺されたので、仇である将門と争わざるをえなくなったのだ。

 

だが貞盛は将門の武力に押され劣勢となってしまう。

それでも常陸を拠点として、しぶとく将門と戦い続けるうちに、

将門は反逆者として朝廷の追討を受ける身となる。

 

将門はもともと五千の兵を率いていた。

ただ農繁期にさしかかると農民兵を帰村させたため

手元には、わずか一千の兵しか残っていなかった。

貞盛はこれを好機ととらえた。

下野に出向くと、親戚である秀郷に協力を要請する。

 

「わかった、ともに将門を討とうぞ」

秀郷は朝敵となった将門を討ち取ることを決意し、

四千の兵を集めて将門に戦いを挑んだ。

 

そして940年(天慶3年)2月1日。

戦いが始まると、秀郷と貞盛は将門の軍勢を撃破し、

将門の本拠である下総まで追撃をかける。

 

将門は手元に四百の兵しか残っていなかったが、逃げることなく、

十倍以上の戦力を持つ秀郷たちと決戦を行うことを決意。

 

こうして2月14日。

秀郷・貞盛連合軍と、将門との間で最後の戦いが始まった。

 

この日は季節風が吹き荒れていた。

初めは風上に立った将門が有利に戦い、

しきりに矢を秀郷たちの軍勢に浴びせかけ、苦境に追い込んだ。

しかしやがて風向きが変わり、今度は将門が風下に立たされると

秀郷たちはこの好機に、逆に矢を浴びせかける。

みるみる将門の軍勢が崩れてゆく。

将門は自ら先頭に立って奮戦するも、やがて流れ矢に落馬し

討ちとられてしまう。

 

こうして秀郷は、将門が作ろうとした関東の王国を、

わずか二週間の戦いで瓦解させた。

 

秀郷は朝廷から功績を称賛された。同年3月、

従四位下・下野に任命され、下野一国をとりしきる立場に就く。

地方豪族が四位以上の位階を与えられることは

当時においてはまったく破格のことだった。

 

なおこの翌年に藤原純友(ふじわらのすみとも)の乱がおこっている。

この両乱の追討をした軍人貴族の子孫が

以降、中央に『武士』として認められるようになる。

 

こののち藤原秀郷の子孫は全国一円に広がった。

そして奥州藤原氏蒲生氏など多くの武家の祖となるのである。

 

(了)

 

(参考文献)

伝説の将軍 藤原秀郷(野口 実)

 Wikipedia

 Web他 

 写真や画像はWikipedia、Web から借用いたしました。

 

  

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