ミントの人物伝92〔第906歩〕

 

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この人物、出生や経歴など詳しいことが分かっていません。

だから有名なあの場面をピックアップしてお届けします。 

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*ミントの人物伝92

山本勘助(やまもとかんすけ、?-1561)

武田家の軍師。

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甲斐の武将武田晴信は、父の信虎を追放し国主となると

1542年(天文11年)、信濃国に侵入し諏訪氏を滅ぼす。

 

山本勘助はこの頃に晴信の配下になったようだ。

 

彼は優れた軍師であり、軍事上の献策だけでなく、

相模(北条)、駿河(今川)との三国同盟を締結させるなど

武田家に大きな貢献をしてゆく。

 

晴信が信濃への侵攻を本格化させると

村上義清はじめとする信濃国衆との対立が始まり

やがて北信濃を巡り、越後の長尾景虎(のちの上杉謙信とも

対立することになる。

 

領土欲旺盛で手段を選ばぬ晴信と、禁欲的で「義」のためにのみ

戦をする景虎とは、性格的にもまったく相容れるはずがなかった。

 

武田晴信(信玄)

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長尾景虎上杉謙信

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1560年(永禄3年)、

関東管領である上杉憲政北条氏康に敗れ越後に逃亡し、

長尾景虎に庇護を求めた。

景虎にとってみると、甲斐・信濃(晴信)と関東(氏康)の二方面に

敵を構えることになるが、義のためにはやむをえない。

 

景虎はまず氏康を討つべく関東へ出陣する。

このとき関東の諸大名の多くが景虎に付き、その軍勢は

10万に膨れ上がった。

氏康は、戦いの不利を悟り決戦を避けて小田原城に籠城した。

 

1561年(永禄4年)3月、景虎小田原城を包囲するが、

北条方の守りは堅く、膠着状態となった。

 

このとき景虎は、連合軍の大将である上杉憲政から

関東管領と、上杉名跡の譲渡の申し出を受ける。

景虎はこれを受け、以降、上杉政虎と名乗ることになる。

 

一方、北条氏康は籠城しながらも、同盟者の武田信玄(晴信が改名)

に援助を要請していたが、信玄はこれに応えて北信濃に侵攻する。

 

そして川中島こそが決戦の場と見きわめ

海津城(現在の長野市松代町)を築き、政虎への備えとした。

 川中島ではそれまでの6年間で

越後勢と甲斐勢との小さな合戦が3度おこっている。

 

同年8月、政虎は信玄と雌雄を決すべく川中島に向う。

そして善光寺を経由して女山に布陣した。

 

これに対し武田方は茶臼山に対陣する。

これにより妻女山を、海津城と共に包囲する布陣となった。
しばらく膠着状態が続く。
 
29日になり、武田軍は膠着状態を打破しようと
八幡原を横断して海津城に入城した。
 

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だが膠着状態は武田軍が海津城に入城した後も続く。
武田氏の重臣たちは、上杉軍との決戦を主張する。
 
「勘助、よい作戦はないか?」
 
「さよう、この方法はいかがでござろう」
 

勘助は、別働隊の編成を献策した。

・この別働隊に妻女山の上杉軍を攻撃させる。

・上杉本軍を麓の八幡原に追いやる。

・その上杉軍を、すでに八幡原に布陣した武田本隊が待ち伏せ

 別働隊と挟み撃ちにして殲滅する。

 

これは啄木鳥(キツツキ)がくちばしで虫の潜む木をつついて、

驚いて飛び出した虫を喰うことに似ていることから、

キツツキ戦法と名づけられた。

 

 信玄はこの策を容れて、高坂昌信ら1万2千の別働隊を編成、

9月9日深夜、妻女山に向かわせた。

 

この夜は霧が深く、10間(約18m)先も見通せないほどだった。

 

同時に信玄率いる本隊8千は八幡原に移動、布陣して

逃げ出してくる上杉勢を待ち受ける態勢をとった。 

 

しかし政虎は軍略の天才だった。

彼は9日の午後、海津城からの炊煙がいつになく多いことから、

すでにこの動きを察知していたのだ!

 

ー武田は今夜動く。

おそらく信玄は八幡原に待ち伏せしているはずだ。

先回りして信玄の首をとってくれようー

 

一切の物音を立てることを禁じて、夜陰に乗じて

ひそかに妻女山を下り、雨の宮の渡しから千曲川を対岸に渡った。

 

頼山陽漢詩

「鞭声粛々(べんせいしゅくしゅく)夜河を渡る」

の場面である。

 

政虎は兵1千を渡河地点に配置した。

女山がもぬけの殻と知った武田別動隊が追ってくるのを

防ぐためである。

ただどれだけ持ちこたえられるか分からない。

それまでに信玄を討たなければ

今度は逆に武田軍に挟撃されてしまうだろう。

 

政虎はついに八幡原に布陣した。

武田本隊は政虎のこの動きを全く察知できていなかった。

深い霧が上杉軍にとって幸いしたのだ。

 

9月10日夜明け、別動隊の高坂勢は妻女山を攻めるが

そこには兵はおらず、もぬけの殻だった。

「しまった。御屋形様が危ない!」

 

10日午前8時頃、

夜明けの濃霧が晴れた時、まだいるはずのない上杉軍1万3千が

眼前に布陣しているのを見て、信玄と勘助は驚愕する。

武田本隊は8千しかいないのだ。

 

「かかれっ!、狙うは信玄のみ!」

政虎は、車懸りと呼ばれる波状攻撃で武田本隊に襲いかかった。

 

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武田軍は完全に裏をかかれた形になり、

鶴翼の陣で応戦したものの、上杉軍のすさまじい勢いに

武田軍は防戦一方となる。

 

このとき信玄の弟、武田信繁ら数人の有力武将が討ち死にする。

 

勘助は劣勢になったのは見通しが甘かった自分の責任と考えていた。

何としても信玄を救いたいと前線で戦うが

勘助もついに討ち死にしてしまう。

 

ー殿、高坂殿が戻ってくるまでどうかご無事で・・-

 

一時は武田本陣も壊滅寸前となった。

このとき政虎と信玄の一騎打ちがあったとされる。 

 

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信玄は九死に一生を得た。

武田の別動隊が八幡原に到着したのだ。

上杉軍を挟撃する形になったため形勢は逆転し、

今度は武田軍が優勢になった。

 

上杉軍は不利を悟り北に引き上げる。

政虎は長蛇を逸したのである。

 

武田軍は追撃を開始した。

上杉兵は次々に討ち取られた。

 

信玄は午後4時に追撃を止めて八幡原に兵を引いた。

上杉軍も川中島北の善光寺に配置していた兵5千と合流して、

越後国に引き上げた。

 

この戦いによる死者は、上杉軍が約3千、武田軍が約4千と

互いに多数の死者を出した。

甲陽軍鑑』はこの戦いを「前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ち」

と評価している。

第四次川中島合戦は、まさしく歴史に残る名勝負だった。

 

山本勘助はいなくなったが 

彼の死後は真田幸隆が後継者となり

信玄の参謀として活躍することになるのである。

 

 

(参考文献)

「野望」(伊沢元彦) 

 Wikipedia

 Web他 

 写真や画像はWikipedia、Web から借用いたしました。

 

 

[平成30年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20181231


[平成29年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20171231

 

[平成28年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20161231

 

[平成27年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20151231


[平成26年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20141231


[平成25年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20131231


[平成24年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20121230


[平成23年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111231


[平成22年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111230


[人物伝]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20140930


[YAMAPの記録]
https://yamap.co.jp/mypage/199626

 


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