ミントの人物伝93①〔第917歩〕

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本来は野心家なんです。でも

肖像画を見ると優しいまなざしをしています。 

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*ミントの人物伝93①

 

オットー1世(912-973)

神聖ローマ帝国の初代皇帝。

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912年、ザクセン大公ハインリヒとその妻マティルデの子として

生まれる。

ハインリヒはドイツ初代国王とされる傑物である。

 

ザクセン東フランク王国(ドイツ)の一地方だが

当時の東フランク王国は大公領が割拠していた。

フランケン、

ロートリンゲン

ザクセン

バイエルン

シュヴァーベン

の5分国である。

国家としてのまとまりがないため

異民族の侵入にたえず脅かされていた。

 

当時の大公国

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919年、ハインリヒが国王として選出されハインリヒ1世となる。

同年にオットーの弟ハインリヒが誕生。

母のマティルデはこの弟を溺愛した

 

オット―は心やさしい若者に育ってゆく。

ハインリヒにはやや物足りなかったが、一方でオットーに

優れた資質を見出してもいた。

 

929年、17歳のオットーは

イングランドの王女エドギタと結婚する。

オットーは式の翌朝、新妻に言う。

「おまえに私の生まれ育ったこの美しい土地をあげよう。

朝の贈り物(モルゲン・ガーベ)だ」

そこはマクデブルクであり、のちにオットーが東方進出の

足掛かりにする土地でもあった。

 

ハインリヒは、オットーを国王後継者として

諸大公に認めさせる。

国王位の長子世襲の制度化は、ゲルマン社会では

それまで前例のないことだった。

 

930年、オットーに息子リウドルフが生まれる

936年、ハインリヒ1世が没すると、

諸大公は、オットーを自分達の王として戴くことを承認した

 

ただ一人、母親のマティルデのみはこれに反対し、

弟のハインリヒこそ国王にふさわしいと主張していた。

 

ーわたしはカール大帝のあとを継ぐのだー

かつてカール大帝(768-814)はその治世を通じて西ヨーロッパの

ほぼ全域を領土としたが、オットーは戴冠式アーヘン大聖堂

挙行し、自分が大帝の後継者であることを世に示した

 

アーヘン大聖堂(Webより転載)

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ー諸大公に見下されないようにしなければー

背伸びやあせりがあったかもしれない。

諸大公を「わが盟友」として対等に扱った父とは異り、

オットーはあくまで上に立つ者としての姿勢を貫いた。

そのため不満を持つ者も多く現れはじめ、

938年から翌年にかけて反乱が続発することになる。

 

オット―には異母兄タンクマールがいたが、

彼や弟のハインリヒが反乱軍の旗印として掲げられた。

反乱軍はフランケン大公のエーバーハルトや、

ロートリンゲン公のギゼルベルトらである

 

苦戦するオットーだったが、シュヴァーベン大公ヘルマン1世

救援に駆けつけたため形勢が逆転、オット―が勝利する。

タンクマールとエーバーハルト、ギゼルベルトは戦死する。

弟ハインリヒのみは母マティルデのとりなしで、この時は咎め

受けなかったが、そののち兄の暗殺を計画して発覚、

修道院に幽閉されることになる

 

オットーは当主を喪ったフランケン大公領を自らの直轄地とした。

また危機を救ってくれたヘルマン1世に対しては、その娘イーダを

自らの嫡子リウドルフと婚約させる。

将来の王妃の地位を約束することによって彼の労に報いたのだ。

 

オット―は大公領をすべて自分の近親者に治めさせることで、

再度の反乱を防ぎ、王国の統一を図ろうとしたのである

 

その後944年には、娘リウトガルトの婿であるコンラート(赤毛公)

ロートリンゲン大公の地位を与えている

オットーは、この物静かで勇敢な婿を気に入っていた。

 

947年、オットーは母の懇願を容れてハインリヒを許した。

ハインリヒはオットーに恭順を誓い、以後はその片腕として

活躍するようになる。

オットーは彼にバイエルン大公の地位を与えた

 

こうして、本来の直轄領であったザクセンに加え、フランケン、

シュヴァーベン、ロートリンゲンバイエルンの全ての大公領は

すべてオットーの近親者で治めることとなった。

 

ただ悲しいことが起こった。

愛妻のエドギタが亡くなってしまうのである。 

 

エドギタの死後、オットーはリウドルフを傍近くに置いて

自分の補佐をさせたいと考えた。

しかし、リウドルフの方では父の言いなりになることを嫌った。

シュヴァーベン大公領に身を置き、

自分の力で政治を行えることを示そうとした。

 

950年、イタリアの王位継承権を持つロターリオ2世の未亡人、

アデライーデがオットーに救いを求めてくる。

イタリア王位を狙うイヴレア辺境伯ベレンガーリオとその息子

アダルベルトに結婚を迫られ、断ったために幽閉されていると

いうのである。

 

オットーは千載一遇のチャンスと考えた。

ーイタリアを勢力下に置くことになれば、わしはローマ皇帝

後継者となることが出来るー

 

ところがである。

リウドルフが父の許可を得ないまま、アデライーデの救出に向かい、

ベレンガーリオ父子と戦いはじめたのだ。

オットーはリウドルフに激怒し、ハインリヒとコンラートに

後を追わせ、自らも大軍を率いてイタリアへと遠征する。

結局、ベレンガーリオ父子は敗れてアデライーデは無事救出された

 

この時、オットーはカール大帝のようにローマで帝冠を戴きたいと

望んだが、それは果たされなかった

ゲルマン人ローマ皇帝にすることに、教皇側も抵抗があった

のだろう。

 

オットーは勝手な行動をとった息子を許さず、リウドルフが果たした

功績は全てハインリヒとコンラートのものとされた。

 

コンラートは名誉を剥奪された義兄リウドルフに同情的であり、

また敗れたアダルベルトとも親交があった。

コンラートはオットーにベレンガーリオ父子の許しを乞い、

新たに任じられたイタリア総督の地位を辞して、父子がその椅子を

得られるようにとりなした。

結局オットーはこれを容れたが、それはイタリアも自らの近親者に

治めさせようという計画に反するものだった。

 

この件以来、オットーとコンラートとの仲は

以前ほど良好なものではなくなった。

 

(続く)

 

[平成30年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20181231


[平成29年の記録]
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[平成28年の記録]
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[平成27年の記録]
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[平成26年の記録]
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[平成25年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20131231


[平成24年の記録]
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[平成23年の記録]
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[平成22年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111230


[人物伝]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20140930


[YAMAPの記録]
https://yamap.co.jp/mypage/199626

 


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