ミントの人物伝93②〔第918歩〕

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オット―は近親者に裏切られ続きます。

弟、子、娘婿です。

でも誅せずにみな赦(ゆる)しました。

もともと慈悲深い人物だったのです。 

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*ミントの人物伝93②

 

951年、オットーアデライーデ(アーデルハイト)を後妻に迎える。

彼女は自分の娘と同年だった。

この結婚によりイタリアを勢力下に置くという

打算があったことは間違いないが、彼女に惹かれたことも

また事実だった。

 

これによりオットーはイタリア王を名乗ることにした

翌年、彼女が男児ハインリヒを産むと、その子を正当な世継ぎとする

かのような態度をみせ始めた。

 (なおこのハインリヒは954年に夭折)

 

すると息子のリウドルフは当然面白くない。

952年の冬、彼は大規模なクリシマスパーティーをザールフェルトで

主催した。

その席には妹のリウトガルトやその夫のコンラート

マインツ大司教フリードリヒら王国の有力者が呼ばれていた。

この場所でリウドルフは自分の不満を表明したと考えられる。

 

翌953年、王国全土を巻き込む大反乱が勃発した。

はたして首謀者はリウドルフと、彼に同情したコンラートだった。

この2人の王族に、前年のクリスマスパーティーの招待者をはじめ、

多くの諸侯が味方した。

この頃まではオットーに対する諸侯の反感が強かったことがわかる。

 

「コンラートまでが・・・」

オットー1世は弟ハインリヒともども窮地に陥った。

 

954年になるとハンガリーから、当時は非キリスト教徒であった

マジャール人たちが、混乱に乗じて攻め込んできた。

 

「ハインリヒ、どうしたらいい?」

「王よ、これは天の助けかもしれません」

 

ハインリヒは

「異教徒どもはリウドルフらによって導きいれられたものだ。」

というニセの情報を国内に流した。

マジャール人の侵入をうまく利用したのだ。

 

この策が的中した。

リウドルフとコンラートは味方を失い、追い詰められる。

レーゲンスブルクに篭城を続けていたが、飢饉が起こったためやむなく

オットーに降伏した

リウドルフはシュヴァーベン大公位を剥奪され蟄居処分、

コンラートはロートリンゲン大公位を剥奪され謹慎させられた

ただコンラートは、翌年にオットーと和解している。

 

ここにきて、オットーは「近親者によって統治を固める」という

政策のもろさを知る。

彼は聖職者による統治政策に切り替えることにした。

ケルン大司教となっていた末の弟ブルーノに、ロートリンゲン

統治権を与えるとともに、自分の秘書として登用した。

 

955年、国内に侵入したマジャール人たちはまだ撤退していなかった。

彼らはレヒ河畔のアウクスブルクを攻撃する。 

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軍勢を率いてオットーは戦いを挑む。

アウクスブルクの南、レヒフェルトが戦場となったが

オットーの兵力はおよそ8千人、対するマジャール軍は1万7千人と、

兵力では2倍以上の差があり、たちまち窮地に陥った。

 

「義父上(ちちうえ)が危ない、出撃だ!」

コンラートが救援に駆けつけたことで戦況が一変する。

 

レヒフェルトの戦い

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コンラートは二日間の激戦の中で戦死したが、

オットーはマジャール人達を撃退することに成功した。

 

オット―はコンラートの遺骸を抱いて泣いた。

ーコンラート、そなたのことは決して忘れぬぞー

 

このレヒフェルトでの勝利で

オットーは「キリスト教国を異教徒から救った聖なる戦士」として

称えられ、ヨーロッパ中の注目を浴びるようになる。

帝冠への大いなる一歩であった。 

 

960年、総督としてイタリアの統治をゆだねていたベレンガーリオと

アダルベルトの父子が、ローマ教皇ヨハネス12世を攻撃したため、

教皇はオットーに救援を要請した

 

961年、オットーはアデライーデとの子で7歳のオットー2世を

自らの共同統治者として戴冠させると、再びイタリアへ遠征し、

ベレンガーリオ父子を成敗した

 

今や充分にその実力を周囲に認められたオットーは、

962年2月2日にローマにおいて教皇から帝冠を授けられた

彼は皇帝となり、オットー1世(大帝)と称するようになる。

 

歴史的にはこの時をもって神聖ローマ帝国の誕生としている。

これより教皇の戴冠によって皇帝が即位する習慣が生まれ、

以降、ドイツ王がイタリア王を兼ねていくことになる。 

 

 皇帝位を手にしたオットーは、その後はイタリアに滞在し、

マクデブルク大司教座を設立し、異教徒のスラブ人に対する

伝導組織を確立した。

 

967年、息子オットー2世を共同皇帝に任命する。 

972年、東ローマ帝国から皇女テオファヌを、オットー2世の

妃として迎えた

テオファヌは洗練された東ローマの文化をもたらしたことで、

この国に多大な影響を与えたとされる。

 

後継者達に後を任せ

オットーは973年、テューリンゲンのメムレーベン宮殿で

61年の波乱に満ちた生涯を閉じた。

 

亡骸はマクデブルクへ運ばれ、先妻エドギタの隣に葬られた

彼の最後の希望だったのかもしれない。

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帝位はオットー2世が継承したが、その子のオットー3世が急死して

直系が断絶する。

1024年に帝位を継いだハインリヒの孫のハインリヒ2世も

子の無いまま死去、ザクセンは断絶した。

 

ハインリヒ2世の後を継いで、ザーリアー朝を開いたコンラート2世は

コンラートとリウトガルトの曾孫である。

 

(了)

 

(参考文献)

神聖ローマ帝国」(菊池良生) 

「ドイツの歴史を知るための50章」(森井裕一)

 Wikipedia

 Web他 

 写真や画像はWikipedia、Web から借用いたしました。

 

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[YAMAPの記録]
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