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あるとき毛利元就は、息子の三兄弟をよび寄せると、
一本の矢を差し出して、これを折るように命じました。
もちろん、矢は簡単に折れてしまいます。
つぎに元就が三本の矢束を折るように命じると、今度は誰も
折ることができません。
「一本の矢ではもろくても、三本の矢が束になれば頑丈になる。
簡単には折れぬのだ」
三兄弟は結束することの大切さを学んだのです。
ー説話、「三本の矢」よりー
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*小早川隆景①
小早川隆景(こばやかわたかかげ、1540-1597)
幼名は徳寿丸。
長男は隆元、次男は元春である。
徳寿丸は子供のときから賢明で思慮深かった。
拠点とした大内義隆の傘下にあった。
1540年(天文10年)3月に当主の小早川興景が死去。
継嗣がなかったため、竹原小早川家の重臣らは元就に対し
徳寿丸を後継に求めた。
大内義隆の強い勧めもあり、元就はこれを承諾した。
3年後に徳寿丸は12歳で竹原小早川家の当主となる。
小早川家の本家は沼田小早川なので、彼は分家の頭領に
なったことになる。
1547年(天文16年)、
大内・毛利氏は尼子氏と戦い、備後神辺(かんなべ)城を攻めたが
この神辺合戦に徳寿丸は従軍し、初陣を飾る。
小早川軍のみで落とすという功を挙げ、義隆から賞賛された。
小早川隆景と称するようになる。
一方、本家の沼田小早川の当主であった小早川繁平は
病弱な上、眼病により盲目となっていたため
1550年(天文19年)、義隆は元就と共謀し、繁平を無理やり
隠居・出家に追い込んだ。
そして隆景を繁平の妹に娶(めあわ)せ、沼田小早川家を
乗っ取る形で家督を継がせた。
この妹は問田大方(といだのおおかた)と呼ばれた。
元就の強引な策略による縁組だったが、夫婦仲は睦まじく
子ができなくても隆景は側室も置かなかった。
隆景は、沼田小早川家の本拠地の高山城に入城する。
こうして沼田・竹原の両小早川家は統合された。
ところで次兄の元春だが
彼はすでに母の実家である吉川家の養子となっていた。
この年、やはり父の元就が吉川興経を強制的に隠居させ、
元春に家督を継がせて当主にしている。
吉川元春(きっかわもとはる)である。
それぞれ当主となった二人 、隆景と元春は幼いころから
兄弟仲がよかった。
隆景は、武勇にすぐれた兄を尊敬していたし、
元春も弟の賢明さを認め、彼の意見をよく聞いたのである。
二人は毛利の両川(りょうせん)と呼ばれ
以降、毛利の柱石として活躍することになる。
世は下剋上だ。
1551年(天文20年)に、大内義隆は
家臣の陶晴賢(すえはるかた)に討たれてしまう。
元就は中国地方の覇権をかけ、晴賢と敵対することになった。
1555年(弘治元年)、厳島(いつくしま)の合戦がおこる。
元就は策略を駆使して、晴賢軍を厳島におびき寄せ
見事これを討ち破った。
このとき隆景は小早川水軍を率いて
晴賢方の水軍を破り、海上を封鎖したが
村上水軍を味方に引き入れることにも成功している。
村上水軍の協力がなければ毛利の勝利はなかったので
隆景の貢献は非常に大きかった。
厳島合戦での勝利を期に毛利氏の勢力は大きく伸長した。
1557年(弘治3年)、
1562年(永禄5年)からは4年間、尼子氏との戦いが続いたが、
ついに尼子氏を滅亡させる。
1563年(永禄6年)、隆元が急死した。
隆景は元春と共に輝元を補佐することになる。
さらに大友氏と争い九州にも出兵する。
1571年(元亀2年)6月、一代の知略家、毛利元就が死ぬ。
元就は家訓として「兄弟よくまとまり毛利を盛り立てよ」
と言い残していた。
「三本の矢」 のもとになった家訓として有名である。
毛利氏は今や、山陽・山陰十か国を領する戦国大名となっている。
元春が主に山陰地域の軍事面を担当し、
隆景は山陽の軍事面を担当するとともに、政務・外交を担当した。
二人は大友氏や尼子氏の残党と争い、各地を転戦するのだった。
(続く)
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