ミントの人物伝96①〔第931歩〕

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あるとき毛利元就は、息子の三兄弟をよび寄せると、

一本の矢を差し出して、これを折るように命じました。

もちろん、矢は簡単に折れてしまいます。

つぎに元就が三本の矢束を折るように命じると、今度は誰も

折ることができません。

「一本の矢ではもろくても、三本の矢が束になれば頑丈になる。

簡単には折れぬのだ」

三兄弟は結束することの大切さを学んだのです。

ー説話、「三本の矢」よりー 

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*ミントの人物伝96①

 

小早川隆景(こばやかわたかかげ、1540-1597)

戦国・安土桃山時代の武将。五大老

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1553年(天文2年)、安芸国国人領主である毛利元就

三男として安芸国吉田郡山城に生まれる。

幼名は徳寿丸

長男は隆元、次男は元春である。

徳寿丸は子供のときから賢明で思慮深かった。

 

この頃の毛利元就の勢力はまだ小さく、周防・長門(山口)を

拠点とした大内義隆の傘下にあった。

 

毛利元就

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竹原小早川氏安芸国沼田郡の木村城を本拠としていたが、

1540年(天文10年)3月に当主の小早川興景死去。

継嗣がなかったため、竹原小早川家の重臣らは元就に対し

徳寿丸を後継に求めた。

 

大内義隆の強い勧めもあり、元就はこれを承諾した。

3年後に徳寿丸は12歳で竹原小早川家の当主となる。

小早川家の本家は沼田小早川なので、彼は分家の頭領に

なったことになる。

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1547年(天文16年)、

大内・毛利氏は尼子氏と戦い、備後神辺(かんなべ)城を攻めたが

この神辺合戦に徳寿丸は従軍し、初陣を飾る。

隆景は、神辺城の支城である龍王山砦を、

小早川軍のみで落とすという功を挙げ、義隆から賞賛された。

このとき徳寿丸は元服し、義隆の偏諱を賜わって

小早川隆景と称するようになる。

  

一方、本家の沼田小早川の当主であった小早川繁平

病弱な上、眼病により盲目となっていたため

1550年(天文19年)、義隆は元就と共謀し、繁平を無理やり

隠居・出家に追い込んだ。

そして隆景を繁平の妹に娶(めあわ)せ、沼田小早川家を

乗っ取る形で家督を継がせた。

この妹は問田大方(といだのおおかた)と呼ばれた。

元就の強引な策略による縁組だったが、夫婦仲は睦まじく

子ができなくても隆景は側室も置かなかった。

  

隆景は、沼田小早川家の本拠地の高山城に入城する。

こうして沼田・竹原の両小早川家は統合された。

 

ところで次兄の元春だが

彼はすでに母の実家である吉川家の養子となっていた。

この年、やはり父の元就が吉川興経を強制的に隠居させ、

元春に家督を継がせて当主にしている。

吉川元春(きっかわもとはる)である。

 

吉川元春

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それぞれ当主となった二人 、隆景と元春は幼いころから

兄弟仲がよかった。

隆景は、武勇にすぐれた兄を尊敬していたし、

元春も弟の賢明さを認め、彼の意見をよく聞いたのである。 

 

二人は毛利の両川(りょうせん)と呼ばれ

以降、毛利の柱石として活躍することになる。

 

世は下剋上だ。

1551年(天文20年)に、大内義隆

家臣の陶晴賢(すえはるかた)討たれてしまう。

元就は中国地方の覇権をかけ、晴賢と敵対することになった。

 

1555年(弘治元年)、厳島(いつくしま)の合戦がおこる

 

元就は策略を駆使して、晴賢軍を厳島におびき寄せ

見事これを討ち破った。 

このとき隆景は小早川水軍を率いて

晴賢方の水軍を破り、海上を封鎖したが

村上水軍を味方に引き入れることにも成功している。

村上水軍の協力がなければ毛利の勝利はなかったので

隆景の貢献は非常に大きかった。

 

厳島合戦での勝利を期に毛利氏の勢力は大きく伸長した。

 

1557年(弘治3年)、

元就は周防長門を攻略し、大内氏の残党を滅ぼすが

その後元就は隠居し、長兄の毛利隆元家督を継ぐ。 

 

1562年(永禄5年)からは4年間、尼子氏との戦いが続いたが、

月山富田城(がっさんとだじょう)に拠る尼子義久を討ち

ついに尼子氏を滅亡させる。

 

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1563年(永禄6年)、隆元が急死した。

隆元の子である毛利輝元家督を継ぐが、まだ幼少だったので、

隆景は元春と共に輝元を補佐することになる。

 

1567年(永禄10年)には河野氏を助けて伊予国に出兵し、

さらに大友氏と争い九州にも出兵する。 

 

 1571年(元亀2年)6月、一代の知略家、毛利元就が死ぬ。

元就は家訓として「兄弟よくまとまり毛利を盛り立てよ」

と言い残していた。

「三本の矢」 のもとになった家訓として有名である。

 

毛利氏は今や、山陽・山陰十か国を領する戦国大名となっている。 

元春が主に山陰地域の軍事面を担当し、

隆景は山陽の軍事面を担当するとともに、政務・外交を担当した。

二人は大友氏や尼子氏の残党と争い、各地を転戦するのだった。

 

(続く)

 

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