ミントの人物伝96②〔第932歩〕

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「追うか?」は尋ねました。

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*ミントの人物伝96②

 

1574年(天正2年)に入ると、織田信長毛利氏の勢力範囲に

侵攻してくる。

 

1576年(天正4年)、

信長に京を追われた足利義昭に落ちのびてきた。

そして義昭は隆景に、信長を討つように熱心に説いた。

毛利氏は織田氏と断交し、信長と戦うこととなる。

 

足利義昭

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1576年(天正4年)、毛利・村上水軍

反信長勢力の石山本願寺を救援し、糧食を運び入れようとしたが

このとき織田方の九鬼水軍とのあいだで戦いが発生した。

第一次木津川口の戦いである。

この戦いでは、毛利・村上水軍織田方の九鬼水軍を破っている。

 

だが2年後の1578年(天正6年)、第二次木津川口の戦いでは

鉄甲船の九鬼水軍に敗れ、毛利氏は制海権を失ってしまう。

  

1580年(天正8年)、石山本願寺が信長と講和し大坂を退去する。

前年には上杉謙信も死去しているので、信長包囲網は

ついに崩壊してしまった。

 

その後、織田方の中国方面軍司令官である羽柴秀吉の攻略は

次第に激しさを増し、毛利氏は押され続けることとなる。

 

1579年(天正7年)、備前宇喜多直家が織田方に離反する。

1580年(天正8年)、播磨三木城が兵糧攻めにあい陥落、

城主の別所長治は自害する。

1581年(天正9年)には因幡鳥取城がやはり兵糧攻めのため

陥落し、吉川経家がやはり自害している。

秀吉のこの兵糧攻め「三木の干殺し」「鳥取の渇え殺し」

と呼ばれた。 

 

1582年(天正10年)、

秀吉は清水宗治が守る備中高松城を包囲する。

正攻法ではてこずると見た秀吉は、堅固な長堤防を造り

足守川を堰き止め、城を水攻めにした。

水かさが増えて城は孤立してしまった。

 

隆景ら毛利軍は、主力3万を率いて救援に赴いたが

堰きとめられて出来た湖水のため、城には容易に近づけない。

 

この時点で毛利軍は、3万の秀吉軍と兵力が拮抗していた。

だが3月に武田氏を滅ぼした信長の本軍が、備中に向けて

出兵の準備を進めているらしい。 

隆景は、このままでは毛利が織田に勝つのは困難と判断し、

安国寺恵瓊を通じて、秀吉と和睦交渉を行うことにした。

 

交渉が続けられていたさ中の、1582年(天正10年)6月2日、

本能寺にて信長は明智光秀に弑(しい)されてしまう。

これは秀吉だけでなく、毛利氏の運命も変えた事件だった。

 

明智光秀織田信長

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これを高松の陣中で聞いた秀吉は、光秀討伐を決意し

毛利方に本能寺の変秘したままで和睦を結んだ。

 

そして堰を切り落として毛利の追撃を牽制しつつ、

畿内へと引き返した。 

世にいう中国大返しである

 

羽柴(豊臣)秀吉

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本能寺の変の報せが毛利方にもたらされたのは

秀吉撤退の日の翌日だった。

 

「やられましたな兄者」

「どうする、追って討ち取るか?」

おそらく秀吉はもう堰を切り落としていましょう。それに

誓紙の血痕がいまだ乾かぬうちにこれを破るは武士の恥」

結局二人は将士の激昂を抑え、追撃を許さなかった。

 

ーここで秀吉に恩を売っておくのもよいかも知れぬー

 

このとき秀吉を追撃していたら歴史は変わったかもしれない。

だが隆景は追撃をやめて静観をしている。

毛利の実力や将来を見すえての冷静な判断だったといえよう。

 

このあと隆景は居城を新高山城から原城移している。

 

(続く) 

 

 

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