ミントの人物伝97〔第941歩〕

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人相師は言った。

「あなたはいずれ皇帝を産むだろう」

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*ミントの人物伝97

 

漢の文帝(ぶんてい、前203-前157)

前漢の第5代皇帝

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薄氏(はくし)は、戦国時代の魏王室出身の女性だったが

長じて西魏王である魏豹(ぎひょう)後宮に入った。

 

あるとき許負(きょふ)という人相師が彼女の人相を見て

こう言った。

「あなたはいずれ皇帝を産むであろう」

だが彼女には信じられなかった。

彼女の生活には何の変化もなかったのだから。

 

魏豹は当初、劉邦(りゅうほう)の漢軍に味方していた。

そして項羽(こうう)の楚軍に対抗したが、その後劉邦

劣勢になると、彼に対し反乱を起こす。

だが漢の将軍韓信(かんしん)に敗れ、魏豹は庶民に落とされて

劉邦の居城である滎陽に連行されることになる。

そのとき、薄氏の一族や関係者も同行させられた。

 

薄氏は劉邦後宮に入った。

そしてある日、劉邦寝所に召されることとなった。

 

そのきっかけについてはこんな話が残っている。

薄氏は同僚の二人の女官に

「この中の誰が寵愛を受けることになっても、お互いに

 忘れずにいましょう」

と、話していた。

だが彼女自身は目立たない女性であり、劉邦から寵愛される

こともなく、もっぱら機織などの雑用に従事していたので、

周囲の笑い者となっていた。

それを知った劉邦が関心を示し、彼女を自身の寝所に召し入れた

という。

 

一夜限りのことであったが、その結果

薄氏は子の恒(こう)をもうけることとなった。

劉邦の四男で、彼こそがのちの文帝である。

 

劉邦

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項羽との戦いに勝利すると劉邦は皇帝に即位した。

劉邦は諸王を取りつぶし自分の同族で固めてゆく。

 

劉邦の妃の息子(庶子)である如意(にょい)の王だったが、

の王を命じられたので、恒はその後任として代王に封じられた。

恒は、母親の薄氏らとともに代国に向かい、そこで成長する。

恒は穏やかでおもいやりのある性格で、また親孝行だった。

 

前195年、劉邦が死ぬ。 号は高祖。

すると、后(正妻)の呂雉(りょち)が実権をにぎるようになる。

彼女は呂后(りょこう)とも呼ばれるが

唐の則天武后、清の西太后と共に中国三大悪女とされる人物だ。

 

呂后には一男一女の子供がいたが、

息子の盈(えい)を恵帝(けいてい)として即位させたので

太后となる。

そして彼女は、自分の息子のライバルとなる高祖の庶子

次々と殺害していった。 

なお高祖には男子が八人いたが、恵帝以外は庶子である。

 

肥(斉王)

盈(恵帝) 

如意(代王→趙王)

恒(代王)

恢(淮陽王→梁王→趙王)

友(河間王→淮陽王→趙王)

建(燕王)

長(淮南王)

 

漢代の中国

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太后は趙王の如意を長安に呼び出して毒殺する。

如意は晩年の高祖が太子に立てようとした人物だった。

このあと如意の母の戚(せき)夫人も、嫉妬深い呂太后

残忍な方法で殺されている。 

 

また友(ゆう)如意のあとを継いで趙王となるが、

その妻である呂氏の讒言により、呂太后長安で幽閉され

餓死した。

 

そのあと趙王となったのは恒の異母弟恢(かい)

だが彼も、寵愛していた側室が正室の呂氏により毒殺されると、

悲嘆し、そのあとを追って自害してしまう。

この二人の呂氏というのはともに呂一族である。

太后は一族の娘たちを王族に后として下賜していたのだ。

  

太后は恢の後任として、代の恒に趙への移封をもちかけた。

だが・・ 

「今は匈奴の侵攻からの防衛が重要です」

恒はこう呂太后に伝えて、趙への移封を辞退している。

趙にいた異母弟たちが呂太后により殺されていることを

知っていた恒は、中央に近づくことを用心したのである。

趙王には呂太后の甥の呂禄が封じられた。

 

このように呂太后は、自分の一族で権勢を独占しようと考え、

劉氏の王族を次々と廃し、殺害していった。 

やがて各地の王たちは

そのほとんどが呂氏一族で占められるようになった。

 

幸運にも恒が殺害されなかったのは、その生母である薄氏が、

如意の母である戚夫人などと異なり、

劉邦から寵愛されることが少なかったためだと考えられる。

 

だが呂太后にも計算外のことがあった。 

恵帝が子供をつくらないまま死去してしまったのだ。

太后は無理やり呂氏一族の子供を、恵帝の子供だと

いうことにして、と二代続けて皇帝に立てる。

だが二人ともまだ幼児であり、完全に呂太后の傀儡だった。

 

専横をほしいままにした呂太后だったが、そんな彼女も

年老いてゆく。

紀元前180年、呂太后が死去した。

 

周勃(しゅうぼつ)陳平(ちんぺい)ら建国の元勲と

斉の襄(じょう)、(しょう)兄弟による政変で

呂氏一族は滅ぼされる。

皇帝である弘は呂一族だったのですぐに廃された。

 

再び劉氏の漢となったわけだが 

元老や王族の間で、誰を皇帝にするのか話し合いが始まった。

高祖の八人の息子のうち残っているのは

今や四男の代王恒と七男の長(ちょう)だけだ。

だが長は驕慢な性格なので皇帝には向いていないとされた。

 

一方で、高祖の孫である斉王の襄も有力な候補となった。

彼には呂氏一族誅滅の功績もあったのである。

したがって候補は恒と襄の二人に絞られた。

 

しかし襄には駟鈞(しきん)という外戚の有力者がいた。

おりしも呂氏一族を除いた直後であり、強力な外戚を持つ者を

皇帝に擁立すれば、再びその専横が発生するおそれがあった。

 

そこで

生母が没落貴族の末裔であり

高祖の遺児では最年長者であり

権力欲が少ない人格者

である恒が適任だ、ということになった。

 

恒が新皇帝として擁立されることとなったのである。

 

しかし恒の即位には、今度は代国内から反対の声が上がった。

政変を起こして呂氏一族のみならず皇帝まで廃立した

元勲たちを信用できないというものであった。

皇帝即位を求める使者が、長安と代国とを何度も往復し

ようやく即位が実現した。

 

前180年、恒は反対派がまだ代国内に多くいたため、

わずかに数名の側近と6騎の馬車のみで長安に入り、即位する。

文帝の誕生である。このとき24歳。

 

ーもう血なまぐさいことはまっぴらだ。民が安心して暮らせる

世を作ろうー

 

即位直後は文帝と元勲との関係は、必ずしも円滑ではなかった。

しかし、元勲が政治の舞台から引退するようになると、

文帝は政権の主導権を確保するようになった。

 

楚漢戦争で中国の人口は半減したといわれる。

文帝の基本的な政治姿勢は、民力の休養と農村の活性化にあった。

そのため、大規模工事は急を要するものを除き停止させた。

 

また、文帝の在位中には減税が数度実施された。

法制度の改革では、肉刑の大幅廃止を行っている。 

 

また自らの政敵でもあった諸候に対しては穏便に接した。

本来ならば嗣子がなくて断絶になる場合や、また謀反を起こして

廃立される場合にも、その血縁者を求めたり領地を分割させたりして

の地位を保全させる努力を払っている。

 

民衆にとっては社会が安定して、歓迎すべき時代が現出した。

その治世は次の景帝の代と合わせて「文景の治」と称えられた。

 

文帝景帝の時代があったからこそ国力が向上し、

その後の武帝(ぶてい)黄金期がつくり出されたと

いっていいだろう。

 

 

(了)

 

 

(参考文献)

「小説十八史略(二)、陳舜臣」 

Wikipedia

 Web他 

 写真や画像はWikipedia、Web から借用いたしました。

 

 

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