ミントの人物伝99〔第952歩〕

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わしが武官として朔方の地に従軍していた頃のことじゃ。

銀州へ向う手前の場所で日が暮れてしまったので、

そばの廃屋で一夜を明かすことにした。

夜が更けたときだ。

突然周囲が赤い光に包まれたので、空を見上げると

一台の幌車がゆっくりと地上に降りてくるところで、

その車内には一人の美女が乗っていた。

わしはその女に向かってお辞儀をして祈った。

「今日は七月七日です。あなたは天の織女ですね。

どうか私が富貴と長寿を得られますように」と。

すると女は微笑んで、「あなたは大いに富むし、

出世するでしょう。それに長生きもできますよ」

と言う。

話し終えると、またゆっくりと天へ昇ってゆき、

しばらくすると見えなくなったのじゃ。

-Wikipediaより-

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*ミントの人物伝99

 

郭 子儀(かくしぎ、697-781)

唐朝の軍人・政治家

 

 

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唐の中期、子儀は華州鄭県に生まれる。

彼は地方長官の子息であり、早くに父を喪ったが

武挙において優秀と認められ仕官を果たす。

その後、単于副都護・振武軍使に

累進したが、典型的な晩成型の人物であった。

 

749年(天宝8年)に、横塞軍使に命じられたときは

すでに53歳だった。

 

754年(天宝13年)には、先年に設置した横塞軍の在所が

耕作に向かなかったことから、新たに北側に築城し、

横塞軍と安北都護府とを移し、横塞軍は天徳軍と改称された。

 

この功により、子儀はあらためて天徳軍使となって、

九原太守朔方節度右兵馬使に命じられる。

このときの朔方節度使安思順だったが、彼はくしくも

安禄山(あんろくざん)の従兄弟だった

 

玄宗(げんそう)の治世後半の天宝年間(742〜756)になると、

玄宗自身も政治に飽き、気に入りの寵臣を重用し、

楊貴妃との愛情生活におぼれるなど、政治が乱れはじめてきた。

 

玄宗

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安禄山たくみに玄宗信任をえて、

北辺の范陽平盧・河東三鎮の節度使兼任するまでに出世した。

 一方、朝廷では楊貴妃の一族の楊国忠(ようこくちゅう)

宰相として実権を握っており、玄宗の恩寵を安禄山と争って

対立した。

  

755年(天宝14年)11月、

楊国忠打倒を掲げて安禄山が挙兵する。

安禄山は幽州を発って

たちまち河北一帯を席巻し、洛陽や長安を陥落させて

大燕聖武皇帝と自称した。

 

朔方節度使の安思順は、以前から安禄山の叛心を

進言していたので、死罪こそ免れたが中央に戻される。

その後任として右兵馬使であった子儀が朔方節度使に昇格し、

朔方郡の兵を率いて安禄山討伐に向かうよう詔が下された。

このとき子儀59歳。

戦時下ならではの破格の出世だった。

 

玄宗たちは成都へ落ち延びたが、

馬嵬(ばかい)駅まで来たところで兵士たちが皇帝に迫り、

難の元凶だとして楊国忠楊貴妃殺害された。

 

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太子の李亨は別行動をとり北方の霊武に逃れて、そこで即位する。

第10代の粛宗(しゅくそう)である。

無理やり上皇にまつりあげられた玄宗不本意だったが、

やむなくこれを承諾するしかなかった。

 

朔方節度使の子儀は、河東節度使李光弼(りこうひつ)

ともに反乱軍と戦い、河北の諸郡を少しずつとり戻していった。

子儀の名は高まり、彼の朔方軍5万は粛宗の中核となった。

だがまだ長安と洛陽は奪回できていない。

 

756年9月、粛宗はウイグルに援軍を求めた。

ウイグルの第二代可汗磨延啜(まえんてつ)はそれに同意し

ここに唐・ウイグルの連合が成立した。

 

まもなく安禄山が子の安慶緒(あんけいしょ)に殺されて、

反乱軍に動揺がおこった。

粛宗は好機であるとして長安の奪回を決意する。

太子の李俶大元帥、子儀を副元帥として

長安への侵攻を命じた。

 

総指揮官をまかされた子儀は、  朔方軍・ウイグル軍あわせて

15万の軍勢で長安に向かった。

 

激戦のすえ、長安を奪回し入城を果たすと 

3日後には洛陽をめざして出発する。

757年10月、ついに洛陽を奪回する。

そして粛宗を長安に迎え入れることができた。

粛宗は喜び、その後長安に戻ってきた子儀を郊外まで出迎え

「国が再興できたのはそなたのおかげだ」 

と言って、その労をねぎらったという。

 

粛宗

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またウイグルの兵たちも

身長190cmほどの偉丈夫である子儀の指揮ぶりに感じ入り、

郭令公と呼び、畏敬の念を持って遇した。

ただこのことがのちになって活きてくるとは、

さすがの子儀も予想していなかった。

 

なお玄宗だが、同年12月に長安に帰還するが

こののちは軟禁状態で余生を送り、5年後に崩御している。

在位中の前半は「開元の治」と称えられた善政を行い

国力を高めた唐の皇帝も、寂しい晩年だったといえよう。

 

子儀は長安と洛陽を奪回させた功により、代国王に封じられ、

「中書令」という宰相職に任命される。

 

だがこのあと、子議の成功を妬む宦官たちに讒言され、

左遷させられてしまうのだ。

 

-人の妬みとはやっかいなものだ、気をつけねば-

 

このあとのことを簡単に述べる。

759年3月、史思明(ししめい)が安慶緒を殺し、

4月、自ら大燕皇帝として即位。

一方、ウイグル可汗磨延啜が急死する。

760年3月、史思明が洛陽に入城し、再び唐朝と対抗する。

しかし史思明は後継者争いのもつれから、息子の史朝義

殺害され、史朝義が大燕皇帝となった。

 

762年4月、玄宗が死去。

粛宗もその10日後に死んで、

その子の代宗(だいそう)が即位した。

これを知った史朝義はウイグルに対し、ともに長安

奪うことを働きかける。

ウイグルも一旦は同意して大軍を長安に向けたが、

途中で引き返し、再び唐側に付くことになった。

唐軍とウイグル軍は合流し、10月に洛陽を奪還し、

史朝義は范陽(北京)に敗走した。

 

763年正月 史朝義が范陽で自殺し、

7年以上にわたる安史の乱ようやくここに終了した。

  

その間、子儀は二度にわたり

宦官らの誹謗中傷を受けて左遷させられるが、その後の

764年、固懐恩(ぼっこかいおん)の反乱

765年、吐蕃(とばん)ウイグルの反乱

を平定する軍功をあげ、みごとに復活するのである。

 

ウイグルとの戦いでは、子儀は自らウイグルの陣中に赴き

交渉して和平に成功している。

このときは、子儀とウイグル将兵たちと旧知の仲だったことが

幸いしている。

様々な意味で子儀は強運の持ち主だった。

 

数度にわたり救国の英雄となり、

代宗とその子の徳宗の信頼を得た子儀は

779年、尚父の号を賜り、大尉・中書令に昇進した。

 

代宗

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その2年後、85歳で子儀は大往生をとげる。

功成り、名遂げた生涯だった。

 

中国三千年の歴史の中で、武将で彼ほど成功したものは珍しい。

彼自身も神仙の加護を受けていると感じていたのだろうか。

こんな話がある。

 

代宗の大歴年間の初めのころ、

子儀は河中に陣を布いていたとき、重い病気にかかった。

まわりは大変憂慮し、また万一陣没するようなことが

あってはと恐れた。

それを聞いた子儀は、医者と幕僚を呼んで言った。

「これしきの病、何でもない。ワシは決してこんなところでは

 死なぬぞ」

そして彼は不思議なことを語り出した。

それは以前、天の織女に出会ったというもので、

そのとき彼は富貴と長寿を約束されたのだという。

 

長くなってきたが最後にもうひとつ話をしよう。

これも代宗の世である。

子儀の息子の郭皧(かくあい)は、代宗の娘である昇平公主

妻にしていた。

この若い夫婦があるとき猛烈な夫婦喧嘩を始めた。

勢いに任せて郭皧は口走ってしまった。

「父親が天子だからといって大きな口をたたくな。

 私の父だってその気になれば、いつでも天子に

 なれたんだぞ」

 

公主は代宗のもとに駆け込んで、泣いて訴えた。

すると代宗は

「実際その通りではないか。子儀がその気になれば

 いつでも天子になれたのだ」

そう言って公主を追い返したという。

 

聞いた子儀は驚いて、郭皧を引き連れて謝罪に参上した。

だが、

「若い者たちの痴話げんかじゃ、気にすることはない」

と代宗に言われ、おかまいなしになった。

皇帝の子儀に対する信頼が

いかに厚かったかを示すエピソードだと思う。

 

邸に戻った子儀は、息子を板で何度も打ちすえたという。

パコーン、パコーンといういい音がしたかも知れない。

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(了)

 

 

(参考文献)

Wikipedia

Web「世界史の窓」

 守屋 洋「中国武将列伝」

 写真や画像はWikipedia、Web から借用いたしました。

 

 

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