ミントの人物伝100①〔第960歩〕

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    私には特別な才能はありません。

 だた好奇心が強いだけです。

 アインシュタイン

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アルバート・アインシュタイン

 

アルバート・アインシュタイン

(ALBERT EINSTEIN、1879-1955) 

 物理学者

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アルバートは1879年3月14日、南ドイツのウルムで

電気技師のヘルマンを父、パウリーネを母とし、

その長男として生まれた。

一家はアルバート誕生翌年の夏、ミュンヘンに引っ越す。

ヘルマンはその弟ヤコブと、電気機器を製造する会社を

設立した。

 

1881年、妹のマリアが誕生する。

 

アルバートは、2歳まではまったくしゃべらなかった。

5歳になったときから、急に両親や大人たちに対し

質問ぜめをするようになる。

 

ある日父から方位磁石(コンパス)をもらった。

 

ーどうしてこの針は同じところばかりを指すんだろう?ー

 

これがアルバート

初めて科学に興味を持つようになったきっかけだった。

 

アルバートとマリア

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アインシュタイン一家はユダヤ人ではあったが、

アルバートは6歳から3年間、

ミュンヘンにあるカトリック系の公立学校へ通った。

 

だがアルバートは学校がすぐに嫌いになった。

授業と言えばギリシャ語やラテン語の暗記が主体だった。

彼は語学や古典などの暗記科目は不得意だったし、

軍隊みたいな校風もいやだった。

なによりも教師が質問に答えてくれない。

彼の科学の質問が意外だったり、難問だったためだ。

 

アルバートは10歳になり

ミュンヘンルイトポルトギムナジウムに入学。

ギムナジウムはドイツの伝統的な中等学校のことだが、

やはり小学校と同様軍隊的な校風であり、なじめなかった。

 

アルバートはある日、素晴らしい科学の本に出会う。

ベルシュタイン『通俗科学体系全集』 。

地球の成り立ちや天体のしくみ、さらに時間・空間のことを

わかりやすく解説した本である。

彼は夢中で読み、ガリレイニュートンにあこがれて

天文学と物理学にも関心を示すようになった。

微分積分も、この頃に独学で習得したといわれている。

  

1894年、父と叔父の会社が行きづまる。

その結果、新たな商業的な機会を求めて一家はミラノに

引っ越すことになった。

 

アルバート(14歳) 

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父のヘルマンは、アルバートギムナジウム

しっかり卒業する必要があると判断し、

彼だけミュンヘンに残されることになった。

だが彼はギムナジウムの校風に反発していたので

1894年12月末、退校を自ら申し出て

ミラノの家族のもとへやってきた。

 

1895年、アルバート

スイスの名門校であるチューリッヒ工科大学を受験する。

数学・物理は抜群だったが、総合点が合格基準に足らず

失敗する。

語学の成績がひどかったためだ。

だが同大学学長のはからいで、一年後には入学を許可する

という条件で、アーラウの学校に通うことになった。

 

ここまで書いていて気づいたことがある。

アルバートは決して「優等生」ではなかったことだ。

子供のころは変わりものとされ、先生たちにも嫌われた。

成績も科目により偏りがあり過ぎた。

しかし彼はしだいにその才能を発揮してゆくようになる。

 

アーラウで、ある晴れた日の昼休みのことだ。

アルバートは学校の裏にある丘に寝ころんでいた。

いつの間にか眠り込んでしまい、不可思議な夢を見た。

それは、自分が光の速さで光を追いかける夢だった。

彼は目が覚めると、すぐに思考実験を試みた。

 

ー鏡の中の自分の姿は動きながら見ても変わらない。

 でも自分が光の速さで走ることができたら、

 自分の姿はどのように映るんだろう?ー

 

思考実験とはいわゆる理科の実験のように、道具や場所を

必要とする実験ではない。

ある特定の条件下で考えを深め、頭の中で推論を重ねながら

自分なりの結論を導き出していく、思考による実験である。

 

ニュートンがりんごの実が木から落ちるのを見て

万有引力の法則を導きだしたのも、この思考実験の

成果だったといえよう。

 

1896年1月、ドイツの兵役義務から逃れるため、

アルバートドイツ市民権を放棄した。

彼はいかなる戦争も人類を不幸にすると考え、

また身体も丈夫ではなかったため、兵隊になるなど

とんでもない、と思っていた。 

彼の反戦主義は生涯貫かれることになる。

 

1896年10月、17歳のアルバート

チューリッヒ工科大学への入学を許可された。

彼は同学の自由な校風が大いに気にいる。

 

ここで、アルバートは数人の学友を得た。

マルセル・グロスマン

欠席した授業のノートを借りた親友だ。

フリードリッヒ・アドラー

政治家をめざしていた友人である。

ミケーレ・ベッソー

彼とはのちに同じ役所で働くこととなる。

 

チューリッヒ工科大学

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そしてアルバートは、ミレーバ・マリッチという

女学生と出会う。

彼女は4歳年上だったが、優秀な学生で

しだいに二人は恋愛感情を持つようになった。

 

アルバートは決して模範的な学生とはいえなかった。

つまらないと思う講義には出席しないで、

興味ある分野にだけ熱中した。

 

 

父からは電気技師になることを期待されていたが、

アルバートは次第に研究者になりたいと思うようになった。

 

ー大学に残ってミレーバとチューリッヒで暮らしたいー

 

1900年、卒業の年になり、アルバート

数学・物理の教員資格試験に無事合格した。

 

そして7月にチューリッヒ工科大学を卒業したが、

同大学の物理学部長とは不仲であったために、

希望していた大学助手にはなれなかった。

 

アルバートは臨時の代理教員やアルバイトなどで

収入を得つつ、論文の執筆に取り組んだ。

 

1901年、スイス国籍を取得する。

スイスもまた兵役義務を課していたが、

彼は健康状態で不適とされ、これを免除されている。

 

アルバートの苦境を救ったのは親友のグロスマンだった。

グロスマンは有力者である父親を通じて、彼就職先を

探してくれたのだ。

1902年、アルバートはスイス特許庁ベルン特許局

審査官として就職した。

 

アルバートは優秀で、仕事を効率よく約3時間で

片付けることができたので、好きな物理学の問題に

取り組む時間がたっぷりあった。

そのうえ特許申請の中にあるさまざまな発明理論を

知る機会にも恵まれることになる。 

 

やがて父ヘルマンが死去。

ミラノで埋葬を済ませると、チューリッヒに戻り、

間もなくしてベルンに移った。

 

1903年1月6日、アルバートとミレーバは正式に結婚し、

翌年には長男ハンスを授かる。

 

アルバートとミレーバ

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アルバートは幸福な家庭と落ちついた仕事に恵まれ、

満足していた。

 

また役所仲間には大学時代の友人、ベッソ―がいて

休み時間には彼と物理学上の議論を戦わせていた。

 

その中で彼は 

あの特殊相対性理論を生み出すこととなるのである。

 

 

(続く)

 

 

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