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つまるところ、アメリカ人であろうとドイツ人であろうと、
誰もが人間なのです。この唯一の観点が理解されさえすれば
私はうれしいのです。<アインシュタイン>
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話は少しさかのぼる。
親友のカイム・ワイズマン教授が相談をもちかけてきた。
シオニズムと呼ぶが、彼はその中心となった人物であり、
のちにイスラエルの初代大統領になる。
ワイズマンが言うには、
ついてはアインシュタインにも資金集めの協力を
してほしい、とのことだった。
アインシュタインとワイズマン
いたので、これを快諾する。
ともにアメリカに行き、講演をしながら寄付を募る
ことになった。
訪問し、講演を行って大歓迎を受けた。
大学設立資金も予定以上の寄付が集まった。
彼はユダヤ人に対する偏見がないこの国が
大いに気にいってしまった。
アインシュタインはそのあとイギリスも訪問し、
ニュートンの墓を訪ねている。
1922年3月にフランスを訪れたあと、10月には
日本への訪問を目的に夫婦で客船「北野丸」に乗船した。
航海途上でノーベル物理学賞の受賞の連絡が入ったのは
先に述べた通りである。
11月17日に訪日したアインシュタインは、
その後43日間滞在し、各地を講演した。
彼は日本人の礼儀正しさに感銘をうけたらしい。
アインシュタインとエルザ
翌1923年、日本を出国した後、
エルサレム、スペインを訪問しドイツへと戻り、
行っている。
ひたすら研究にあった。
1929年頃からは、統一場理論に取り組む。
「電気と磁気の場」と「重力場」をひとつの理論に
まとめようとしたのだが、この研究は彼の死までに
完成することはなかった。
1930年、ベルリン郊外のカプートという町に別荘を建てる。
ユダヤ人や戦争反対者の多くが逮捕されるようになる。
目をつけられるようになる。
1932年、プリンストン高等学術研究所からの誘いがあり、
アメリカへの訪問をすべくドイツを出国する。
1933年1月、ナチスが完全に政権を握る。
ユダヤ人への迫害が日増しに激しくなり、
ー残念だがドイツではもう暮らせないー
彼はプロシア科学アカデミーを辞任した。
アインシュタインは一度ヨーロッパに戻ったのち
1933年10月、あらためてアメリカへと渡り、
プリンストン高等学術研究所の教授に就任する。
こののち彼がドイツに戻ることはなかった。
ドイツはアインシュタインを国家反逆者とした。
1935年、アメリカでの永住権を申請取得する。
またアメリカ国籍も申請した。
そのような激動の中、 翌年妻のエルザが死去した。
殺害が始まっている。
イタリアに住んでいた妹のマリアもアメリカに逃れてきた。
アインシュタインは平和主義者だったが、しだいに
ーナチスを倒すためには、残念ながら戦争も必要なのだー
と考えるようになっていく。
(続く)
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