栃錦と若乃花①<ミントの人物伝Ⅱその1>[第1,062歩]

両雄並び立たず、といいます。

でもスポーツ界においては実力が伯仲する二人の対決は

大いにそのスポーツ人気を盛り上げます。

昔、二人の強い横綱がいました。

 

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栃錦若乃花①<ミントの人物伝Ⅱその1>

 

 

栃錦 清隆(とちにしき きよたか、1925年 - 1990年

東京 出身

本名大塚 清(おおつか きよし)、のちに養子となり中田 清(なかた きよし)。

第44代横綱身長178cm、体重124kg、A型。

 

1925年(大正14年)、小岩村(現・江戸川区南小岩)での製造を営む家の

二男として生まれる。

少年時代から運動神経は抜群だった。

近所の大人たちの勧めもあって下小岩尋常小学校卒業後、

13歳で春日野部屋の門を叩いた。

 

最初は「大塚」とか出身地である「小岩」と呼ばれていた。

 

1938年(昭和13年)12月、新弟子検査にのぞんだ

ただ彼はまだ13歳で軽量だった。

当時の規定では身長5尺5寸(約1.67m)、19貫(約71.3㎏)が必要だが

体重が足りない。

そこで検査前に白飯と水を腹一杯に詰め込み、

体重計の上に飛び乗って、針を大きく揺らして通過したという。

 

1939年(昭和14年)1月場所初土俵を踏む。

この場所は双葉山安芸ノ海に敗れ70連勝を阻まれた歴史的場所であり、

彼は偶然その場に居合わせることになった。

 

なおこの頃は春場所(1月)と夏場所(5月)の年2場所しかない。

年3場所が定着するのは1949年(昭和24年)で、

1953年(昭和28年)から年4場所、

1958年(昭和33年)から年6場所となってゆく。

さらに興行日だが、戦争で混乱したこの時期は、1場所が10日であったり

13日だったりした。

15日制に戻るのは1949年(昭和24年)5月場所である。

 

栃錦は体重が軽いのでどうしても当たり負けしてしまう。

そのためくらいついたら離れない相撲をとるのでマムシのあだ名を

つけられた。

稽古にひたすら打ち込むうちに先代春日野親方の目にとまり、

付け人に引き上げてくれた。

 

春日野親方はもと優勝回数9回の大横綱栃木山だ。

この親方すごい酒豪で、毎夜飲みながら大塚との相撲談義になった。

 

親方からは

「裸で寝るな、バネがきかなくなるぞ」

「寝る時はエビのように小さくなって寝ろ。飯を食うときは大きな体で食うんだ」

などの指導を受けた。

また相撲の技を手取り足取りで教えてくれた。

ー俺は小柄だからいろいろな技を身につけなければー

このときに受けた勉強がどれほど役に立ったかしれない。

のちに栃錦は「一場所で四十八手全部を使う」、などと言われたが

「技能賞」常連となる栃錦の原型がこのときに作られたといえる。

 

序二段で一度負け越しただけで順調な出世を遂げ、

1944年(昭和19年)5月場所で十両昇進を果たす。

四股名を改め栃錦清隆となる。

春日野の現役名である栃木山と、その兄弟弟子だった大錦から付けたものだ

 

その後、戦争の激化によって彼は海軍に徴兵されてしまい

翌年終戦まで軍隊生活を送ることになったが、

幸いに戦地に送られることはなく無事復員する。

1945年(昭和20年)11月場所において十両4枚目で番付に復帰し、          

 6勝4敗と勝ち越した                   

1946年(昭和21年)1月場所は東十両筆頭で迎えたが、6勝6敗1分と勝ち越せず、

幕内昇進は厳しいと思われた。

     

ところが、上位の4力士が引退したことで、1947年6月場所で新入幕を果たす。 

入幕の場所は4勝6敗と負け越したが、当時はまだ東西制が実施されていた時代で、  

当時はまだ東西制が実施されていた時代で、

そのため翌場所の十両陥落を免れる。   

なお、東西制はこの場所限りで廃止されてしまうのだから彼にとっては 

非常に強運だったといえる。

入幕2場所目の11月場所では西前頭16枚目で9勝2敗の好成績を挙げる。

この場所から三賞制度が始まった。

1949年(昭和24年)1月場所では、技能賞を初めて受賞する。

以後3年間、年3場所のうち2場所はこの技能賞を獲得することになる。

いつしか人は彼のことを「技能賞男」と呼ぶようになっていった。

やがて栃錦は通算9回の技能賞受賞という記録を作るに至るのである。

 

1951年(昭和26年)1月場所では前頭2枚目で初日から7連敗を喫した。

この地位は前半に上位と当たることが多いのだ。

だがその後はしぶとく8連勝して8勝7敗と勝ち越した

翌5月場所で小結に復帰する。

この頃の栃錦は文字通り死に物狂いの猛稽古をした。

 

この5月場所8日目で前頭筆頭の若ノ花と初顔合わせとなり、

この時は掛け投げを打たれて逆転負けとなっている。

ー足腰が強い気迫のある力士だなー

との印象をもったが、のち彼が生涯のライバルとなり

何度も名勝負をくり広げることになろうとは夢にも思わなかった。

 

1952年(昭和27年)5月場所、10勝5敗で通算8回目の技能賞を獲得、

協会から特別表彰を受けた

 

同年の9月場所では、場所中に高熱を発したが14勝1敗で

初の幕内最高優勝をとげた。

 

場所後に大関に昇進するが、このときの体重はまだ98㎏しがなかった。

だがその後は体が大きくなり

土俵を動き回る取り口から四つに組む取り組みも多くなってゆく。

 

大関として迎えた1953年(昭和28年)1月場所は、

11勝4敗で上位陣の面目を保った。

 

続く同年3月場所では14勝1敗で大関として初優勝を果たす。

同年5月場所でも13勝2敗である。

3場所通算で38勝をあげた彼は、次の横綱候補と目されるようになった。

 

ところが好事魔多しである。

この直後、巡業先で一晩ハメを外し無理な飲食をしたため体調を崩し、

その後の3場所を8勝、9勝、9勝と低迷してしまった。

春日野からは「たった一晩の不摂生が半年たたることになるんだ」と叱責された。

 

1954年(昭和29年)5月場所において14勝1敗の好成績を挙げ、大関では2度目、

通算3度目の幕内最高優勝を果たす。

 

続く9月場所においても栃錦吉葉山に勝利し14勝1敗で連続優勝を決め、

場所後に第44代横綱へ昇進した

彼はまた大正時代生まれで最後の横綱昇進者だった。

 

1955年(昭和30年)年1月5日、横綱栄進披露パーティ開催。

1月場所後には結婚。

 

栃錦は人生最高の時期を迎えたのだった。

 

(続く)

 

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