アントニウスとアウグストゥス①[第1,070歩]

役者がそろいました。それでは開演です。

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アントニウスアウグストゥス<ミントの人物伝Ⅱその4>

 

アントニウス

 

マルクス・アントニウス

Marcus Antonius、紀元前83年-紀元前30年

共和政ローマの政治家・軍人

 

アウグストゥスAugustus, 紀元前63年 - 紀元14年

もとオクタウィアヌス

 ローマ帝国初代皇帝 (在位:紀元前27年  - 紀元14年)。

 

アントニウスの父マルクスはかつて法務官を務めたていたが、

地中海での海賊征討の任務で失態を犯し、挽回がかなわないまま死去した。

母ユリアは夫マルクスの死後、レントゥルスと再婚した。

このレントゥルスは執政官となったが、 国家転覆の陰謀へ加担したとして、

のちに処刑されている。

 

このため多難な青年期を過ごしたアントニウスであったが、

その後ギリシアへ渡り、

紀元前57年、シュリア総督ス・ガビニウスの下で、騎兵隊長となる。

浅慮軽薄ではあるが戦闘では有能な軍人であるとされた。

 

その後、ガリア総督ユリウス・カエサルの総督代理としてガリア戦争に従軍する。

ガリア戦争従軍中はその活躍を認められ

紀元前49年カエサルルビコン川を渡った際には護民官の職にあった。

ローマ内戦では、紀元前48年ファルサルスの戦いで活躍し、

同年に騎兵長官に指名される。

 

ユリウス・カエサル

 

カエサルは終身独裁官になったが、最高運司令官や最高神官を兼ねていたので

実質的な君主だった。

かれは一年足らずの間に様々な改革を行った。

だがやがて共和政を維持したい元老院保守派の反感をかって

ブルートゥスらに暗殺されてしまう。

 

紀元前44年、カエサルが暗殺された年には、アントニウス執政官だったが、

彼はカエサルを神格化しブルートゥスらを追放することに成功。

そして国庫を掌握し、旧カエサル派を代表する形で

共和派といったん和を結び、カエサルの葬儀挙行を認めさせる。

そしてその葬儀の場で民衆を煽動し、今度は共和派を追放したのだった。

 

だがアントニウスカエサルの遺言状の内容を聞いて失望した。

カエサルは第一相続人として、オクタウィアヌス後継者に指名していたのだ。

オクタウィアヌスカエサルの妹の孫である。姪の息子だ。

カエサルの後任者をめざしていたアントニウスは面白くない。

 

ーあんな若造になにができるっていうんだ?

 カエサル殿の後継者は俺だー

 

オクタウィアヌス

 

だが次第に頭角を現すオクタウィアヌスに対して、

カエサルの死後、単独の執政官として事実上権力を掌握していたアントニウス

危機感を募らせた。

オクタウィアヌス元老院と結ぶと、

アントニウスガリアにいたカエサルの副官であったレピドゥスらと同盟し

オクタウィアヌスに対抗した。

 

それでも窮地に陥ったアントニウスは防衛策を打つ。

12月31日に執政官の任期を終えたアントニウスは、翌紀元前43年1月1日には

ガリア・キサルピナへと逃れた。

同日、元老院オクタウィアヌス元老院議員に任命、そして指揮権を与えた。

ただこの頃から元老院は台頭するオクタウィアヌスを次第に恐れるようになる。

 

元老院というのは共和政ローマの統治機関である。

前509年、王制が打倒されたのちは

元老院は「貴族の権威によらない合議制の統治機関」として存在していた。

また元老院の議員は、共和政を非常に誇りに思っており、

伝統的に権力者が生まれることをかたくなに拒絶していた。

カエサルもじつはこの元老院体制の打倒をもくろんでいたのである。

 

ひそかに帝政を意識しだしたオクタウィアヌスは、元老院と対抗するため、

アントニウスとの妥協を模索した。

 

当初は対立していた両派であったが

その後、反共和派、反元老院で一時的に一致し

アントニウスオクタウィアヌスレピドゥス三者による同盟が成立。

これは第2回三頭政治と呼ばれる。

 

彼らは国家再建三人委員会を開設し、カエサル暗殺者逮捕を名目に、

元老院派の排除に乗り出した。

そして元老院議員の約300人と、元老院派と目された騎士身分の約2,000人が

殺害され、財産が没収された。

このときオクタウィアヌスの盟友だったキケロも殺害されている。

 

その後アントニウスオクタウィアヌスと共に、

マケドニア属州へ逃れていたブルトゥスロンギヌスら共和派を

フィリッピの戦いで破った。

 

三頭政治はもともと権力争いの一時的な妥協として成立していたため、

各人は同盟関係にありながらも自らの勢力強化に努めた。

アントニウスはローマを離れ、共和派に組していた東方の保護国王らと会見し

係を強化した。

 

アントニウスガリア・キサルピナからエジプトへ移り、

ここでカエサルの愛人であったプトレマイオス朝女王クレオパトラ7世

その子カエサリオンと出会う。

クレオパトラ7世はアントニウスに頼んで

政敵のアルシノエ4世を殺害させるのである。

 

クレオパトラ7世

 

紀元前41年の冬にアントニウスの弟ルキウス・アントニウスフルウィア

オクタウィアヌスに反抗し、ペルシアで蜂起した。

ペルシアの戦いである

この戦争にはオクタウィアヌスが勝利したが、ここで改めて

三人の同盟の確認が行なわれた。

アントニウスが死亡した妻フルウィアの後妻に

オクタウィアヌスの姉オクタウィアを迎えることにより、

同盟は強化されたのである。

同時に三頭官はイタリア以外の帝国の領土を三分割し、東方はアントニウス

西方はオクタウィアヌス、アフリカはレピドゥスとそれぞれの勢力圏に分割した。

 

カエサルの果たせなかったパルティア征服を成し遂げることで、

競争者であるオクタウィアヌスを圧倒することを目論んだアントニウスは、

紀元前36年にパルティアに遠征した。

アントニウスはこの遠征の後背地として豊かなエジプトを欲した。

そして女王クレオパトラと再会。アントニウスクレオパトラに求愛し、

後に2人の間には子供が生まれることになる。

 

しかしアントニウスのパルティア遠征は失敗だった。

ローマ軍団のシンボルである鷲旗さえもパルティアに奪われてしまう。

第2次パルティア戦争である。

ただクレオパトラアントニウスの軍隊を再建できるほどの財力を持っていたので、

アントニウスはこれを好機として、妻のオクタウィアを一方的に離婚してしまう。

 

その後、アントニウスは、パルティアへ味方したアルメニア王国を攻撃し、

国王アルタウァスデス2世を捕虜とした。

そしてその凱旋式をローマではなくアレクサンドリアで挙行したが

その際に自らの支配領土をクレオパトラや息子らへ無断で分割してしまうのだ。

 

この頃のアントニウスは、ローマの支配者とまでゆかなくても

クレオパトラや子供らと安心して暮らせる領土を確定させたい、と考えていた。

紀元前34年アントニウスクレオパトラと正式に結婚する。

 

アントニウスは独立するつもりか?ー

 

オクタウィアヌスにとってローマが分断されるのは許せないことだった。

オクタウィアヌスアントニウスを弾劾するため、彼の遺言状を公開させた。

その内容は

ローマの征服した地域はアントニウスの子に受け継がれるべきこと、

アントニウスの墓はアレクサンドリアにてクレオパトラと共に葬られるべきである、

と書かれていた。

 

オクタウィアヌスは、アントニウスエジプト人と公式に結婚し、

ローマ人の姉を見捨てローマ人以下になったのだ」と演説した。

 

このためローマ市民の中に

アントニウスクレオパトラに骨抜きにされてローマ人の自覚を失った男」

といったイメージができてしまった。

 

市民の支持を受けたオクタウィアヌスアントニウスとの対決を決断、

プトレマイオス朝に対して宣戦布告したのだった。

 

(続く)

 

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