アントニウスとアウグストゥス②<ミントの人物伝Ⅱその5>[第1,071歩]

勝者と敗者が生まれるのは世の常。

付き合うならアントニウスは楽しそうな男です。

アウグストゥスは面白みに欠けるかもしれません。

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アウグストゥスオクタウィアヌス

 

マルクス・アントニウス

Marcus Antonius、紀元前83年-紀元前30年

共和政ローマの政治家・軍人

 

アウグストゥスAugustus, 紀元前63年 - 紀元14年

もとオクタウィアヌス

 ローマ帝国初代皇帝 (在位:紀元前27年  - 紀元14年)。

 

ところでオクタウィアヌスとはどんな男なのか。

少し話はさかのぼる。

彼は騎士階級のガイウスと母アティアの子として生まれた。

アティアはカエサルの姪だった。

紀元前44年、カエサルが暗殺されたとき、オクタウィアヌスギリシアにて

遊学中だったが、急遽ローマへ帰還する。

その途中、カエサルが自分を後継者に指名していたことを知った。

 

ーわたしが後継者だって?

 偉大な大叔父の跡を引き継いでゆけるのだろうかー

 

だがこれにより、18歳の無名な青年は一躍有名になった。

カエサルはこの無口だが思慮深い姪の子供を高く評価していたのだ。

 

ローマへの帰還中、オクタウィアヌスは熱烈な支持を受け勢力を拡大し、

カエサルの後継者候補として、一躍政治の表舞台に躍り出ることになった。

彼は美青年だったので演説すると見映えがしたという。

 

オクタビアヌスは少しずつ自信を付け、

改めてカエサルの後継者になろうと決心をする。

 

ここからは

一、オクタウィアヌスアントニウスの対立

二、その後ひそかに帝政を意識しだしたオクタウィアヌスは、

  元老院に対抗するためアントニウスとの妥協を模索

三、オクタウィアヌスアントニウスレピドゥスによる第二回三頭政治が成立

四、紆余曲折ののち三頭政治は破綻し、レピドゥスは失脚

五、そしてオクタウィアヌスアントニウスをローマ人の敵であると弾劾

 

ここまでは前述のとおりである。

 

オクタウィアヌスアントニウスはふたたび対立することになった。

紀元前32年末に

オクタウィアヌスプトレマイオス朝に宣戦布告。

これはアントニウスに対する宣戦布告でもあった。

 

アクティウムの海戦

 

紀元前31年、

オクタウィアヌスのローマ軍と、アントニウスプトレマイオス朝の連合軍は

ギリシアアクティウム沖で激突した。

 

アントニウスは総司令部をペロポンネソス半島沿岸のパトラに置き、

艦隊をアンブラキア湾へと集結。

一方でオクタウィアヌスの部下アグリッパはアンブラキア湾内を封鎖、

アントニウス軍の動きを封じ込めると共に補給路の遮断を狙った。

 

9月2日

アクティウム岬沖で両軍500隻以上の艦船が集結。決戦が行われた。

兵員の数ではアントニウスクレオパトラ連合軍が上回っていた。

ところが両軍が少し交戦した時点でクレオパトラの艦隊が戦線を離脱する。

この離脱の理由は不明だ。

クレオパトラ自身がこの戦いに乗り気ではなかったのかもしれない。

 

アントニウスクレオパトラが裏切ったのではないか、と思い

これを追跡した。

これはやってはいけないことだった。

指揮官を失ったアントニウス軍は陸海ともに総崩れとなってしまう。

戦いはオクタウィアヌスの勝利となった。

 

アントニウスクレオパトラアレキサンドリアへと逃亡する。

オクタウィアヌスは二人を追って、アレキサンドリアへ軍を進めた。

 

 

アントニウスクレオパトラが自殺したとの報を聞き、自らも自刃した。

ところがクレオパトラ自殺は誤報だった。

アントニウスクレオパトラのもとに連れてゆかれ

彼女の腕の中で息絶えたという。

 

クレオパトラオクタウィアヌスに屈することを拒んで自殺した。

コブラに身体をかませての死だったと伝わっている。

 

ここにプトレマイオス朝は滅亡した。

カエサルの実子であるカエサリオンは殺されたが、

その他のアントニウスの遺児たちは

オクタウィアヌスの姉であるオクタウィアの下で養育された。

自分を裏切った夫とクレオパトラの子供を育てるのだから

オクタウィアは心優しい女性だったようだ。

面白いことに、のちにこの遺児らの系統から皇帝が輩出するのである。

カリグラクラウディウスネロなどである。

出来のいい皇帝たちではなかったが。

 

こうして、1世紀に及ぶ内戦の時代は終結した。

以降はローマによる平和(パックスロマーナ)が始まる。

 

紀元前29年

ローマに凱旋したオクタウィアヌス元老院プリンケプスとなった。

プリンケプスとは、元老院内での第一人者(元首)を表す称号である。

だが今のオクタウィアヌスにとってこれが最終目標ではない。

 

-国内の敵はいなくなった。そして元老院はかつての力はない。

 これからが勝負だー

 

紀元前27年1月13日のこと、

ー私はローマが共和政に復帰することを宣言するー

なんとオクタウィアヌス元老院で突如、

全特権を返上し共和制に復帰することを表明した

 

元老院は驚喜したが、

オクタウィアヌスがこのとき放棄した特権とは、三頭政治権などの

内戦時の非常大権で、すでに有名無実化しているものばかりであり、

本国を直接支配する執政官職は放棄しなかった。

オクタウィアヌスは自分のことを元老院に認めさせるため、

揺さぶりをかけるべく賭けに出たのだ。

一世一代の演技である。

 

はたして元老院は反応した。

やはりオクタウィアヌスしかこの国をまとめてゆけない、と考えたのだろう。

共和制復帰宣言から3日後の1月16日

オクタウィアヌスアウグストゥス(尊厳者)の称号を贈ることが提案され、

元老院は満場一致で、彼に国の全権を掌握するよう懇請した。

 

オクタウィアヌスは数度にわたり辞退した上でこれを承諾し、

インペラトルカエサルアウグストゥス と名乗るようになった。

 

これにより共和制は、元老院議員たちには気付かれないうちに終焉し、

ローマは帝政へと静かに移行した。

アウグストゥスは賭けに勝ったのだ。

 

アウグストゥスは以後、唯一のローマの統治者であり続けた。

そのため元老院の地位は低下し、皇帝の諮問機関になってしまう。

そして彼の後継者達もアウグストゥスの称号を名乗り続ける事により、

帝政は既成事実化していく。

アウグストゥスは、インペラトルカエサルなどとともに

ローマ皇帝を示す称号の一つになっていった。

 

アウグストゥスは紀元前22年からは東方の再編に着手した。

紀元前19年に帰還し執政官命令権を得た。

紀元前18年には、ユリウス姦通罪・婚外交渉罪法、ユリウス正式婚姻法を制定し

秩序の安定化と道徳の確立を試みた。

なお、紀元前12年にアグリッパ、紀元前8年マエケナスと相次いで

長年の腹心が死去している。

紀元前7年、首都ローマを14の行政区に分割して行政上の責任を明確にした

また文芸を保護し、大規模な公共建築を行って

ローマの市街地を美しくしたことも彼の功績である。

 

紀元前2年、元老院より国家の父 (pater patriae) の称号が贈られた。

 

胃腸を患ったアウグストゥスは、

紀元14年8月19日ポンペイ近郊のノーラで75歳で死去する。

 

最期の日、枕もとの友人たちに言った。

 

「私がこの人生の喜劇で、自分の役を最後までうまく演じたとは思わないか?

 この芝居がお気に召したのなら、どうかこの役者に拍手喝采を」

 

それが初代ローマ帝国皇帝の最後の言葉だった。

 

(了)

 

参考文献 Wikipedia

     最新世界史図表(第一学習社

写真はWebから借用させていただきました。

 

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