人馬の声が天地を揺るがします。
中世九州における最大の激戦です。
1359年(正平14年)7月、
懐良親王を擁した南朝軍が、大宰府へ攻め寄せるという情報を得た少弐頼尚は
敵を迎撃しようと筑後に出陣した。
懐良親王、菊池武光、赤星武貫、宇都宮貞久、草野永幸、大野光隆、西牟田讃岐守ら
南朝軍は約4万。
対する北朝軍は、少弐頼尚、直資の父子、大友氏時、城井冬綱らで約6万である。
この戦いは大保原(おおほばる)合戦、あるいは大原合戦と呼ばれる。
南朝軍は高良山の吉見岳城に陣を敷き、
対する少弐軍は筑後川北岸の下西鰺坂に軍を進めた。
その後、少弐頼尚は大保(おおほ)に退き陣を構え、大友氏時は山隈(やまくま)に布陣する。
一方の菊池勢は、7月19日に筑後川を渡河し、宮瀬に征西府本部を移した。
征西将軍宮が布陣した場所だから、以後ここは「宮の陣」と呼ばれる場所になる。
半月ほど対峙状態が続いた。
武光は敵の陣形を見て
嫡男の菊池武政(きくちたけまさ)に、少弐軍の背後からの奇襲を指示する。
8月6日深夜、武政は宝満川東岸をひそかに北上、川を渡り、
大保の北側に回り込むことに成功する。
「かかれ!斬りまくれ!」
武政の号令の下、背後から少弐勢に襲いかかる。
敵は大混乱に陥った。
奇襲は成功し、続いて両軍の主力が激突した。
8月7日の早朝である。
武光は頼尚に対し獅子奮迅の突撃戦をおこなった。
彼は鎧の下に鉄板を縫い込んでいたので、矢が十数本突き立っても
ひるまない。
敵兵はその様子を見て、武光は不死身の鬼神かと震え上がったという。
しかし兵力に劣る南朝軍は全体として押され気味だ。
南軍総帥である懐良でさえ3ヶ所の深手を負うほどであった。
劣勢の流れを変えたのはやはり武光だった。
少弐の勇将、少弐武藤(しょうにたけふじ)を一騎打ちで討ち取った武光は
その首を刀に差し、憤怒の形相で頼尚に向かって走りだした。
「見よ頼尚っ!武藤の首じゃ!」
それを見た頼尚は恐怖をおぼえ、大宰府に向かって駆け去ってしまった。
総大将がいなければ将兵は浮足立ってしまう。
形勢が逆転した。
少弐勢は結局、少弐直資が戦死したのをはじめ
2万以上の死傷者を出し、大宰府へ敗走する。
武光は追撃を命じる。
だが菊池勢も死傷者が多く、兵の疲労ももはや限界に達していたため
これ以上の戦闘は無理だった。
なにせ十六時間も戦い続けていたのだ。
武光は花立山南の「沼川」まで来て戦いを止める。
すでに夕暮れ時。
武光が馬を降り、太刀についた血糊を川で洗ったそのとき
夕陽が水面(みなも)を赤く染めあげた。
あたかも川の水が血の色に染まったかのようだった。
これにより、「沼川」が「大刀洗川」の名に、
その場所が「大刀洗」(現福岡県三井郡大刀洗町)の名になったとの伝承がある。
なお山隈にいた大友軍は、九州各地から来た混成軍であり、
元々士気が高くなかった。
そのため、大保原の少弐軍が敗走し、征西軍に花立山城を包囲されると
同様に秋月に敗走している。
丸一昼夜繰り広げられたこの合戦で
両軍の死傷者は、約二万五千人、死者は五千三百人に及んだ。
まさしく九州史上最大の激戦だったといえよう。
2年後の1361年(正平16年)、懐良らは大宰府を制圧する。
懐良は御在所を大宰府におき、武光がこれを補佐する体制を整えた。
翌1362年(正平17年)、武光は長者原(ちょうじゃばる)合戦にて
大宰府を奪回すべく攻めてきた少弐頼尚との合戦に勝利し、
頼尚を九州から放逐してしまう。
この後、武光は豊後の大友氏時を降伏させる。
また島津貞久も1363年(正平18年)に死去。
これで九州では、有力な守護がすべて姿を消したといっていい。
南朝は全九州をほぼ統一するに至った。
1363年から約10年間、九州における南朝の黄金時代が続くことになる。
(続く)
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