ミントの人物伝その80−1〔第767歩〕

今日と明日の二回、久しぶりの人物伝をアップしましょう。
放浪生活から大名へ。
そんな人生を歩んだ人物の話です。


ミントの人物伝(その80−1)


伊奈忠次(いな ただつぐ、1550−1610)
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、
武蔵小室藩初代藩主。


伊奈忠次三河国幡豆郡小島に生まれた。
父は小島城主忠家で、徳川家康に仕えていた。

1563年(永禄6年)、領内で三河一向一揆が発生。
忠家は一揆に参加し、家康に反旗を翻す。
この一揆には家康の家来の約半数が加担していた。

家康は苦労をして一揆を制圧することに成功する。
一方、戦いに敗れた忠家は、忠次とともに三河を追放されてしまう。
このとき忠次14歳。

忠次たちは雑役や土木工事に従事し生活した。
苦しい放浪生活だった。

若い忠次は家康のもとに戻りたいと願った。

ー何とか帰参がかなわないだろうか、もういちど殿のもとで働きたいー

1575年(天正3年)、長篠の戦いがおこる。
忠次は家康の嫡男、信康の軍に「陣借り」をして
従軍し功を立てる。

このため父子は晴れて徳川家に帰参することができ、
そのまま信康の家臣となる。

ところが人生とはわからない。
1579年(天正7年)、
信康が武田氏との内通を疑われ、織田信長から自刃を命じられるのだ。
世にいう築山事件である。

信長には逆らえない。
家康は断腸の思いで信康に切腹を命じた。

忠次たちはこの処置に不満を持った。

「殿には申し訳ないが、我らは信長にはついてゆくことができぬ」
再び徳川家を出奔し、堺に逃れることになってしまった。
忠次30歳。
まさしく苦難と波乱の前半生といっていい。

ーもはや殿に仕えることはないだろうー

忠次は武士をやめ、堺で商人になることを決意した。


1582年(天正10年)6月2日、
本能寺の変が起こる。
明智光秀が謀反を起こし、主君の織田信長を本能寺で討ってしまうのだ。

このとき堺を遊覧中だった家康は窮地に陥った。
家康は信長の同盟者であるから、当然光秀に狙われるだろう。
本国に一刻も早く戻らなければならない。

徳川家康

家康の窮状を知った忠次は、すぐに家康のもとに駆けつける。
そして「伊賀越え」として知られる家康の決死の脱出作戦に
貢献するのである。

この功によって、忠次は再び帰参を許された。
この時、もし家康が堺に来ていなければ、
忠次の運命も大きく変わっていたに違いない。

ーわしは殿に二度拾われた。
これからはこの身の続く限り殿のために尽くそうー


(続く)


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[人物伝]
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