*ミントの人物伝その19[第195歩・雨]

「関取。スピード出世ですね。秘訣をお聞かせください」
八百長で上がいなくなっただけだよ」
あー。どすこい。どすこい。


ミントの人物伝(その19)



雷電爲右エ門(らいでんためえもん、1767-1825)

江戸時代の大関
史上最強の力士と呼ばれる。


信濃国生まれで、少年期から体格は大きく腕力も強かった。
1784年(天明4年)、江戸相撲の浦風林右エ門に見込まれ
江戸に上り、谷風梶之助の預かり弟子となる。
初土俵は6年後だが、この間に松江藩松平家のお抱え力士となる。
土俵前にお抱えになるのはきわめて異例。
よほど将来性を見込まれたものだろう。


本場所登場は1789年(寛政元年)7月の大坂。
江戸場所では1790年(寛政2年)11月場所。
雷電は身長6尺5寸(197cm)、体重46貫(172kg)と当時としては非常に大柄だった。
この体格と怪力でどんどん勝ち進んでゆく。


当時の相撲は賭けの対象だったので、八百長が横行していた。
そこへガチンコ(真剣勝負)相撲の雷電が入ってきて
勝ちまくるものだから、彼は目の敵にされたらしい。


「勝負事は手加減して負けると後を引いてしまう。負けたらいけない」
雷電はそう考えていたのではないだろうか。


昭和の名横綱であり、昨年亡くなった初代若乃花幹士の言葉に
『弱いから負けるのではない。負けるから弱いのだ』というものがある。
負け癖がついてしまうと、自信がなくなる。
また回りからも弱いと思われ、かさにかかって攻められるようになる。
するとますます勝てなくなり、ますます弱くなる。
ということだろう。
勝負士らしい奥深い言葉だと思う。


雷電の成績>優勝相当成績 28回
(全勝優勝   7回)
連勝記録    44
(30連勝以上  4回)


江戸本場所36場所中に、通算で10回しか負けていない
1場所で2敗することはなく、同じ相手に2度負けたのはただ1人のみだった。
勝率はなんと9割6分2厘である。
これは大相撲幕内史上の最高勝率であり、彼が史上最強と言われるゆえんである。


ちなみにこの当時は年2場所である。
しかも1場所は10日なので
力士は「1年を20日で暮らす良い男」と言われていた。
もし現在のように年6場所だったら、彼はどのような成績を残しただろう?
不滅の優勝回数の記録を作っていたかもしれない。


あまりに強力な技は、相手を傷つけかねないので、禁じ手になる場合がある。
雷電には、この禁じ手にされたものが4つもあったという。
「突っ張り」「張り手」「閂(かんぬき)」「鯖折り」。
雷電ならではの逸話だろう。


雷電は21年間も圧倒的な強さを保ったが
1814年(文化8年)44歳で引退し、松江藩の相撲頭取となる。
その職を5年勤めたあと
妻の生まれた下総国(千葉県)で永く暮らして、その地で亡くなった。
享年59歳。
記録に残っていないようだが、幸せな晩年だったと信じたい。


ところでこの雷電がなぜか横綱免許を受けていない。
松江藩松平家のお抱え力士だったことが、何か関係しているようでもある。


この時期の横綱は位ではなく名誉称号だったとはいえ
彼が横綱になれなかったことは相撲界最大の謎とされている。


(参考文献)
Wikipedia
画像はWebから借用しました。


おかげさまで、明日からこのブログ2年目に突入です。


雷山