*ミントの人物伝その1[第158歩・晴]

今回から古今東西の人物について書いてゆきたいと思います。
取り上げるのはミントの関心のある人物です。
ただミントは歴史研究家ではありませんので
内容に誤りがありましてもご容赦ください。
 


ミントの人物伝(その1)
稲尾和久(いなおかずひさ、1937-2007)


大分県出身。昭和31年から三連覇したプロ野球チーム、西鉄ライオンズのエースであり
鉄腕の異名を持つ大投手だった。
通算成績は276勝137敗。
今ではこれ以上の成績を残した投手は多いが、その内容がすごい。
彼は入団後の8年間でなんと234勝(92敗)もしている。
それも当時の西鉄は強かったので
優勝争いのペナントレースの中で、連投につぐ連投で到達した数字なのである。
ミントは1954年生まれなのでかろうじて全盛期を知っている。


<<西鉄ライオンズに入団してからの8年間>>
1956年(昭和31年)21勝 6敗、新人王・最優秀防御率
1957年(昭和32年)35勝 6敗、最多勝最優秀防御率・最高勝率・MVP
1958年(昭和33年)33勝10敗、最多勝最優秀防御率・MVP
1959年(昭和34年)30勝15敗、
1960年(昭和35年)20勝 7敗、
1961年(昭和36年)42勝14敗、最多勝最優秀防御率・最高勝率
1962年(昭和37年)25勝18敗、
1963年(昭和38年)28勝16敗、最多勝


外角低めのコントロールが抜群で、新人時代は直球のみで勝負していたが
スライダーとシュートを覚え投球の幅が増えた。


新人年の防御率はなんと1.06。
そして今後も破られないだろう日本記録として
1961年のシーズン42勝がある。
今では先発ピッチャーの1シーズン登板数は28試合くらいではないだろうか。
この年、彼は先発や救援で78試合に登板して404イニングも投げている。
まさに鉄腕である。


1957年の20連勝の記録もすごい。
優勝争いの中、連投もありでの記録なので余計に価値がある。
ダブルヘッダーの第一試合でリリーフをして、次の試合で先発をしたこともあった。
中3日どころか中30分だろうか。


1958年の巨人との日本シリーズでは、3連敗のあと4試合に登板して4連勝。
本塁打まで打って神様・仏様・稲尾様とよばれた。


さすがに永年の連投から肩とひじを壊して
1964年(昭和39年)は0勝2敗
ついに勝ち星がなくなってしまった。
その後リリーフに転向して
1966年(昭和41年)には最優秀防御率のタイトルを取っている。
さすがであるが、もはやかつての勢いはなくなっていた。


すべては酷使されたせいである。
当時はエースが連投するのが当たり前であって
先発ローテーション制度も確立されていなかった。
南海の杉浦、中日の権藤もそのため長持ちしなかった。
稲尾はそれでも酷使に耐え、8年間投げぬいた事がすごいと思う。
もし故障しなければ350勝はしていたと思うが
頼まれれば意気に感じて投げたのだろう。


稲尾を評して、かつてのチームメイトである豊田泰光氏は言う。
「稲尾ほどタフで、コントロールが良くて、頭の良いピッチャーをほかに知らない。彼は最高だ」と。
ミントも全くそう思う。


稲尾は言っていた。
「全盛期には、投球中に自分のフォームが俯瞰(ふかん)したように頭に浮かび
リリースの直前で修正できた」と。


これだけのピッチャーでありながら
一流選手にありがちな傲岸なところはなく、性格は温厚で皆に愛された。


稲尾和久氏は残念なことに70歳で亡くなりました。
今後彼のようなピッチャーはもう出てこないのではと思います。
合掌。