*ミントの人物伝その28[第230歩・晴]

参議院議長が「野次は民主政治の華(はな)だが、今日はうるさ過ぎる」
と言いました。
そういえば幕末に高杉晋作は、14代将軍徳川家茂の行列に
「いよっ、征夷大将軍!」と掛け声をかけたそうです。


ミントの人物伝(その28)

西川寅吉(にしかわとらきち、1854-1941)
日本で一番脱獄に成功した男。


三重県多気明和町に生まれる。
生まれつき運動神経が良くて、喧嘩早かった。
14歳のとき、かわいがってくれていた叔父が賭場の揉め事で殺されてしまった。
西川は刀を持って仕返しに出かけた。
叔父を殺したやくざたちに刀をふるい、家に火を付けて逃げたのだ。
西川は捕まり、地元三重の刑務所で服役することとなった。


若かったし、あだ討ちで服役したということで、周りの受刑者にはかわいがられたらしい。
ところが、仇となる男がまだ生きていることが分かり、脱獄を決意する。


「みんな、俺は脱走するから手伝ってくれ」
西川は受刑者達の助けを借りて脱獄に成功する。
三重刑務所は監視が甘かったのだろうか?
最初の脱獄である。


大人になってからは、ひとかどの賭博師として全国の賭場を渡り歩いた。
しかし賭場には警察の手入れがあるもの。
逮捕され、今度は秋田の集治監に入れられる。
が、ここも脱獄。2回目である。


秋田から故郷の三重に戻るときに、途中の静岡県で警察に追われる羽目になった。
そのとき五寸釘の刺さった板を足で踏んだが、そのまま捕まるまで十数キロ逃げたという。
このときの話が伝説となって
彼は「五寸釘寅吉」と呼ばれるようになった。


静岡で捕まった彼は東京の小菅を経て、北海道の樺戸(からと)集治監へ送られた。
彼はすでに有名になっており、樺戸の囚人達は彼を神様扱いにした。


脱走不可能といわれた樺戸集治監だったが、仲間の協力を得てここでも3回の脱獄をする。
通算で5回(注)だ。
意地だったのだろう。習慣になっていたかも知れない。


一度は合鍵を使っての脱獄。
一度は仲間に雪つぶてを看守に投げつけてもらい作業場から脱走。


脱走しても脱走してもやがて捕まってしまう。
彼はとうとう無期懲役となり、独房にいるときは1貫目(3.75kg)の鉄丸を付けられてしまった。


これでめげないのが五寸釘寅吉だ。
独房に戻って鉄丸を付けられるすきを狙って、看守を蹴り上げ気絶させる。
そして外に出る途中の水場で、2枚の獄衣を水に濡らす。
目の前には5m以上の塀がある。
通常では乗り越えることは不可能だ。
彼はどうしたか?


彼は両手それぞれに濡れた獄衣を持ち、塀の前に立つ。
持った獄衣を塀にたたきつける。すると極寒の季節なので塀に貼りつく。
左右交互にこれを行い、その吸着力を足場にして身体を引き上げる。
そしてついに塀をよじ登ってしまうのである。

すごい運動神経だ。
今なら素晴らしいクライマーになったかも知れない。


脱走しても強盗をしたり、賭場に出入りをしていた。
余った金は義賊よろしく貧しい家に投げ込んだりしていたという。


熊本まで逃げたが、結局また御用となる。
再び北海道に戻され、今度は空知(そらち)集治監へ。
1890年(明治23年)には網走刑務所が出来るとそちらに移される。


西川もこの頃には40歳近くになっていた。
良い看守に当たったこともあり、以降は大人しく刑に服すこととなった。
かつての伝説的な強盗犯は今や模範囚となり、人々の畏敬を集めるようになってゆく。


1924年大正13年)70歳という高齢を理由に、刑の特別停止命令が出て
ついに網走刑務所を仮出所するにいたる。


西川は有名人だった。
釈放されたあとの彼は、興行師に持ちかけられ劇団を結成する。
その名も『五寸釘寅吉劇団』!!


どこでも大入り満員だったそうだ。
彼は自分の体験談を語ったり、なんと防犯のアドバイスなどもしたらしい。
「皆さん、こんな無用心なことではいけない。すぐにやられるよ。
わしが言うんだから間違いない」

どっ、と観客。


大評判で中国・台湾まで公演したという。


昭和の始めには故郷の三重県にいる息子に引き取られ
1941年(昭和16年)安らかにその生涯を終えた。
享年87歳だった。


現在、網走刑務所の正門左前には、西川寅吉の人形が立っているという。


(注)なお、脱獄は6回かもしれませんが、よく分かりませんでしたので
   5回といたしました。


(参考文献)
Wikipedia
伝説の脱獄囚、五寸釘寅吉/月形歴史物語
写真はwebから借用いたしました。


釈迦ヶ岳