人気のあった力士です。
のちの二子山理事長ですね。
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(初代) 若乃花 幹士(わかのはな かんじ)
本名:花田 勝治(はなだ かつじ、1928年 - 2010年)
身長179cm、体重105kg、B型。
青森のリンゴ園農家に10人兄弟の長男として生まれた。
1934年(昭和9年)の室戸台風のため作物が全滅し、一家は破産、
室蘭に移住した。
沖仲仕などの力仕事に従事し、戦争で傷痍軍人になった父に代わって
家計を支えた。
力が強く、普通の男が100kgくらいの鉄鉱石や石炭を担ぐところを、
国民学校を卒業したばかりの花田は150kgを担いで何度も往復し、
のちにはその重さが200kgに達したという。
この腕力と足腰の強さがのちに大きく役立つことになる。
1946年(昭和21年)、二所ノ関一門の巡業で催された相撲大会に
飛び入りで参加し、本職の力士を数名倒した。
当時の花田は長身であったが体重は70kgぐらいだった。
本職の力士を倒したことが大ノ海(のちの花籠師匠)の目にとまり、
相撲取りになることを勧められる。
ーおれは軍人になりたかったが戦争は終わった。
相撲取りか、よし、やってやるぞー
働き手を失いたくない父親の反対を押し切って上京し、
18歳で入門というのは当時としては遅いほうである。
「3年で関取になれなければ辞めて帰る」
これが家族に対して示した条件だった。
彼自身は「師匠が初代、自分は二代目だ」と数えていた。
入門後は「二所一門の荒稽古」で力を付けた。
ーこんちくしょうー
これが若乃花の自分を奮い立たせる言葉だった。
3階から見学して
「上から見たら大横綱も意外に小さく見えるじゃないか。
小さい身体の自分でも努力すればきっとやれるぞ」
と奮起した。
稽古で最も彼をしごいたのは、後にプロレス入りする力道山である。
ある時若ノ花は、あまりの猛稽古で土俵に這ったまま立てなくなった。
それでも力道山は容赦がなかったので、このままでは殺されると思い、
力道山の太ももにかみ付き部屋から脱走したという。
ただ若ノ花本人も力道山の教えは身にしみたと述懐している。
家族と約束した3年より約半年早かった。
この間、1947年(昭和22年)5月場所で2勝3敗と負け越したが、
その後は幕内上位に進出するまで負け越すことはなかった。
ところで部屋の先輩たちの中で、横綱大関と顔が合う地位の力士が
6人ほどいたが、そのことごとくが栃錦に負けていた。
若ノ花は栃錦を次第に意識するようになった。
1951年(昭和26年)5月場所で初めて対戦、かろうじて勝ったが
そのときは先輩たちのかたき討ちができた気がして嬉しかった。
若ノ花は大柄な相手にもがっぷり四つで組む力士だった。
下半身や膝のバネの強さは独特であり、「異能力士」とあだ名された。
これは室蘭時代の舟板の上での労役によるところが大きい。
俵に足がかかってもそれ以上は後ろに下がらない足腰を指して
「かかとに目がある」と評されたこともある。
この「異能力士」の他に、若き日は「オオカミ」のあだ名があった。
角界には“動物のあだ名が付くと出世する”という言い伝えがある。
若ノ花はその言い伝えを証明するかのように番付を上げていった。
1953年(昭和28年)、師匠の大ノ海が引退し二所ノ関部屋から独立、
花籠部屋を創設するとそれに従う。
巡業も引き受け先が見付からず、「日本一の貧乏部屋」と言われながら
辺ぴな土地に出かけて部屋の若い衆相手に胸を貸す稽古を延々と続けた。
1955年(昭和30年)9月場所、西関脇で10勝4敗1分。
1引き分けは横綱千代の山と水入り取り直しの合計17分15秒に及ぶ
大相撲の末での引き分けだった。
この相撲を高く評価され、場所後に大関に昇進する。
前3場所の通算勝ち星は28勝なので、やや甘い昇進だったかもしれない。
当人も大関になれるとは思っていなかった。
番付編成会議の日の朝、家族とともに旅行に出かけようとしていたが
新聞記者に呼びとめられたという逸話が残っている。
1955年(昭和30年)11月には父が死去し、
若ノ花は母に懇願されて室蘭の家族をひき取ることになった。
こうして室蘭の家族6人と自身の家族4人、合わせて10人の生活が
若ノ花の肩にのしかかることになった。
だが彼がやれることは、ひたすら相撲に打ち込むことだけだった。
相撲に「呼び戻し」という技がある。
一、四つ身に組む。
二、強引に相手の体をふところに呼び込む。
三、相手の体が浮き上がったところを素早く差し手を返し
四、前に突き出しながらひねり倒す
別名「仏壇返し」、大相撲の中で最も豪快な技のひとつである。
相手の力を利用する瞬殺の技だが、なかなか決まらないため
「幻の決まり手」とも呼ばれているものだ。
この大技を若ノ花が得意としたのだ。
彼は1953年(昭和28年)5月場所から
1962年(昭和37年)1月場所まで呼び戻しを19回を記録している。
並外れた技術と、強靱な足腰が兼ね備わっていたからこそ
なしえた技であると言えるだろう。
心技体が充実した若ノ花は次々と白星を伸ばしてゆく。
不敵なマスクと気迫あふれる豪快な取り口で彼は人気者になった。
1956年(昭和31年)1月場所は他の2大関が負け越す中で、
翌3月場所場所は12勝3敗。
次の5月場所も12勝3敗で優勝決定戦を制して初優勝をする。
朝汐に遅れること一場所で、2人目の昭和生まれの幕内優勝力士になった。
優勝パレードでは若ノ花を見ようと、青梅街道に数十万の見物者が
集まったため都電はストップ、大騒ぎとなった。
翌9月場所に横綱をかける場所になった。
だが、場所前に長男がちゃんこ鍋をひっくり返して
火傷で亡くなるといういたましい悲運に見舞われる。
稽古どころではなく本場所出場も危ぶまれたが、
出場を強行し、愛児の名を記した数珠をさげて場所入りをした。
そして支度部屋でほとんど一言も発しないその姿は
鬼気迫るものがあった。
初日から12連勝し、連続優勝と横綱は確実かと思われたが、
なんと扁桃腺炎を発症、高熱に襲われ13・14日目を休場してしまう。
当日病状が悪化してやむなく休み不戦敗となった。
結局12勝2敗1休(2敗はいずれも不戦敗)に終わってしまった。
土俵上では無敗だったのに綱取りが消えてしまったのである。
たが皮肉にもこの悲劇が「数珠をさげた名力士」として
若ノ花の人気をさらに高めた。
また鬼気せまる彼の相撲を評して「土俵の鬼」とも
呼ばれるようになった。
同年11月場所は12勝3敗の優勝次点、
翌1958年(昭和33年)1月場所は13勝2敗で2回目の優勝を果たし、
場所後第45代横綱に推挙される。
昭和生まれで、かつ戦後に初土俵を踏んだ最初の横綱の誕生である。
昇進時の口上は「横綱として恥ずかしくない相撲を取ります」だった。
「栃若時代」の幕開けが近づいていた。
(続く)
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