河村瑞賢①<ミントの人物伝Ⅱその6>[第1,081歩]

河村瑞賢(かわむらずいけん、1618年‐1699年)

江戸時代の豪商

 

貧農の身から富と名声を得、旗本にまで出世した男の話です。

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伊勢国度会郡の貧農の家に生まれる。

幼名は七兵衛。長じて十兵衛

 

13歳のときに江戸に出る。

江戸では普請場に雇われて土石を運ぶ仕事をしたが

これではうだつがあがらない、と感じて故郷に帰ることにした。

 

途中の小田原で老人に会った。

老人は十兵衛の身の上話を聞いてこう諭した。

 

「そなたは才覚があるように見える。

才覚があるものにとって江戸は宝の山じゃ、

短気をおこしてはいかん。すぐに戻りなさい」

 

十兵衛はなるほどど考え直し、もう一度江戸で働こうと思った。

 

途中、品川まで戻ってきて浜辺を歩いていると

多くの瓜やナスなどの野菜が、波にただよったり

浜辺に打ち上げられたりしている。

ちょうど7月の盂蘭盆(うらぼん)が終わった時期。

江戸の町民が捨てた供物がこの品川の海岸に流れ着いていたのだ。

 

ーやっぱり江戸は大きいな。これをなんとか使えないだろうかー

 

ここが十兵衛の非凡なところだが、彼は集めた野菜を漬物にし、

車力や人夫向けに弁当のおかずとして販売することにした。

このとき手間賃を払って人を使うことも覚えた。

漬物は元手がかかっていないので安く、好評でよく売れたという。

 

やがて土木工事の差配をしている役人と知り合いになり

彼は人夫の頭になり、請負工事もするようになる。

また九十九里浜での桑名藩の土木工事に携わって

少しずつ資産を増やしてゆく。

 

その後十兵衛は26歳くらいで車力の親方の娘と結婚する。

 

やがて十兵衛は増えた資産をもとに材木店を営むことにした。

これ以降は瑞賢と呼ぶことにしよう。

 

1657年(明暦3年)、史上有名な明暦の大火がおこる。

瑞賢は自分の店も被害を受けていたが、

 

きっとこのあとは材木が不足するに違いないー

 

そう思いすぐに木曽に向かい材木の買い占めを行った。

材木は高値で売れたし、復興の土木建築も請け負ったので

彼は莫大な利益を得ることができた。

瑞賢、ときに40歳。

 

やがて瑞賢は小田原藩主で老中の稲葉正則(いなばまさのり)

知遇を得るようになり、幕府の公共事業にも携わってゆくことになる。

 

ある日、瑞賢は稲葉正則から

奥州からの年貢米が江戸に着くまで時間がかかりすぎるので

早く運ぶための航路をひらいてくれ、という命をうけた。

 

この頃の江戸の人口は約100万人。

武士が50万人で町人がやはり50万人、当時世界一の大都市といっていい。

この巨大都市が消費する米や武士の俸禄米は

ほとんどが西日本奥州天領からの年貢米だった。

ただ西日本からは交通の便がいいが、奥州からの米の移送は

労力と時間がかかった。

そこで十兵衛に命が下ったのである。

 

 

奥州の米を江戸に運ぶ航路としては荒浜からの東回り航路と、

酒田からの西回り航路があった。

 

これまでの東回り航路は

天領で生産された米を奥州荒浜で出港したあと、

利根川河口の銚子でまず川船に積み替えて人や馬で引っ張り、

さらに小舟に積み替え江戸に運んでいた。

奥州の米が江戸に着くまでなんと一年間もかかっていたという。

移送を請け負う商人や船員の質にも問題があったようだ。

 

ー陸路を使うから時間と手間がかかるのだ。

 距離が長くてもできるだけ海路を使えばいいー

 

瑞賢は三浦半島まで海路を延ばせば問題は解決すると考えた。

そこで瑞賢は幕府に対し

・輸送には民間の船を雇うこと、

 またその船は御用船の旗印をかかげること

・丈夫で技術のしっかりした船員の確保

・御用船であることを関係地に周知させること

 などの要望を提出し承認を得る。

 

瑞賢はまた、阿武隈川から荒浜までの河川の状況を部下に調査させた。

 

1671年(寛文11年)に瑞賢は

阿武隈川河口の荒浜から房総半島を迂回し、伊豆半島の下田を経て

江戸に入る新たな東回り航路を開いた。

このとき三か月で米を輸送できたので、彼は幕府の信任を

大いに高めることになった。

 

さらに翌年には西回り航路に取り組む。

瑞賢は東回り航路と同様に幕府の協力を取り付けながら、

酒田から瀬戸内海、紀伊半島を迂回し下田を経て、

江戸に至る西回り航路を確立する。

 

 

瑞賢はこの功績により三千両の大金を幕府から下され、

土木家としての名声は広く知れわたることになった。

 

1674年(延宝2年)、瑞賢は親藩の越後高田藩松平光長から招かれた。

光長は家老の小栗美作(おぐりみまさか)とともに、豊かな国づくりに

取り組んでいたが、瑞賢の意見を聞きたいと思ったのだ。

当時石高を増やすための土木工事といえば治水と新田開発である。

瑞賢は相談を受けて、土地を見て回り、このように進言した。

 

・築港を行うとともに直江津港への水の流れを変え、港湾の機能向上と

 新田開発を推し進めること。

中江用水の開削をおこなうこと。

 

中江用水の開削とは池尻川の拡幅工事をおこない、野尻湖の水を

七里遠方までゆき渡らせることである。

これが完成すれば水田開発が大いに進みはずだった。

 

美作は納得し工事に取りかかった。

中江用水については、完成まで4年の歳月がかかっている。

その間瑞賢と美作は、幾度と協議を繰り返したことだろう。

 

工事は完成し、米の収量は大きく増加する。

そして越後高田藩はこれまで26万石だったが

実収は36万石以上と言われるまでになるのである。

 

(続く)

 

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