*ミントの人物伝その5[第164歩・晴]

今回は台湾で有名な日本人です。
我々日本人はこの人を忘れてはいけないと思います。


ミントの人物伝(その5)
八田與一(はったよいち、1886-1942)

石川県出身の水利技術者。
日本統治時代の台湾で水利事業により大きな貢献をする。


1910年(明治43年)、台湾総督府内務局土木課技師となる。
1918年(大正7年)、與一は台湾南部にある嘉南平野(かなんへいや)の調査を行なった。
嘉南平野は香川県ほどの面積があり、台湾の中では2番目に広かったが
灌漑設備が整っていなかったので、田畑は常に旱魃(かんばつ)の危険にさらされていた。


そこで與一は、官田渓上流の烏山頭(うさんとう)に当時東洋一の規模のダムを造り
そこから平野全体に給排水路を張り巡らすという壮大な計画を立てる。

この計画は国会でも承認され
総工費5,400万円をかけた大工事を、34歳の彼が指揮することになった。


1920年大正9年)9月、烏山頭ダム造成工事が開始される。


烏山頭ダムは大工事なので時間もかかるし困難でもある。
働く人たちが安心して良い仕事をするためには家族が一緒でないといけない、
と與一は主張し、
家族を含めて約二千人の一つの町が出来た。
宿舎だけでなく、学校・商店・浴場やテニスコートまであったという。


仕事には頑固な彼であったが、部下には日本人・台湾人と分け隔てなく接したので
慕われたらしい。


完成までには多数の犠牲者も出すが


1930年(昭和5年)4月、有効貯水量1億5000万トンの烏山頭ダムが完成。
また、水路も嘉南平野一帯に16,000kmに亘って網の目のように張り巡らされた。

與一は感無量だったに違いない。


平野の隅々まで灌漑用水が行き渡ってゆくのは、ダムの完成からさらに数年を要したが、
サトウキビすら育たなかった嘉南平野一帯は、これにより大きく潤され、台湾最大の穀倉地帯へと変わってゆく。
恩恵を受けた農民は約100万人と言われる。


ダムを造って確保した水は約5万ヘクタール分だったのにもかかわらず
15万ヘクタールの豊かな農地が生まれている。
これはサトウキビ、米、雑作(イモなど)用に耕地を細かく3つに分け
1年ごとに順番に作付けして灌漑したからである

この三年輪作法こそ八田與一の最もすぐれた功績であると
農業経済学者でもある李登輝(りとうき)前総統が称えている。


輪作法については、ほぼ同時期の日本人の先駆者がいる。
台湾製糖』の土木技師だった鳥居信平(とりいのぶへい、1883-1946)
台湾最南端の屏東県(へいとうけん)で、1921年から1923年にかけて
急流の川床に堰(せき)を埋めて、伏流水を利用した地下ダム「二峰圳(にほうしゅう)」を造った。
このダムは周辺の環境を大きく変えることなく、農業用水と飲料水を供給し
広大な荒地を豊かな耕地に変えた。
このダムは設計段階から輪作法を取り入れていた。
つまり
乾季にはサトウキビ畑へ、雨季には水田へ、余った水は雑作用の畑へと
水をまわすように分水工を設けていたのである。


與一は鳥居信平の輪作法を、さらに大規模に、組織的に実現したのだった。


彼は工事終了後、台北台湾総督府に移った。
技師として最高位である勅任技師として台湾の産業計画の策定に従事する。
ところが
1942年(昭和17年)5月8日、五島列島付近で、乗船していた大洋丸
アメリカの潜水艦によって撃沈され死亡してしまう。


現在でも、台湾の高齢者を中心に、與一の業績を評価する人は多い。


烏山頭ダムでは、與一の命日である5月8日に慰霊祭が行なわれている。
戦後の日本人排斥の時期にも、現地の人により大事に保管されていたという「與一像」も安置されている。
與一と妻の外代樹(とよき)の墓は今でも花束が絶えることがないという。


(参考文献)
 Wikipedia 
 Webサイト 他


八田與一の像(Webサイトより拝借しました)