*ミントの人物伝その4[第163歩・曇]

人物伝にはミントの主観がすごく入っています。
ご了解ください。


ミントの人物伝(その4)
山岡鉄舟(やまおかてっしゅう、1836-1888)


剣・禅・書の達人。
鉄舟は号で、通称は鉄太郎。
江戸城無血開城の立役者である。
勝海舟高橋泥舟とともに幕末の三舟(さんしゅう)」と呼ばれた。
ミントは、三人の中では鉄舟が一番好きである。


1968年(慶応4年)3月、官軍による江戸城総攻撃が目前に迫っていた。
江戸の町を戦禍から救おうとする勝の命を受け
鉄舟は、征討大総督府参謀の西郷隆盛と下交渉するべく、江戸から駿府へ下った。
官軍が警備する中でも
「朝敵、徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る!」

と大声をあげて進んでいったという。


西郷と面談した鉄舟は
西郷が示した五条件のうち、江戸城引渡しなどについては承知したが
将軍慶喜備前藩にあずけることは頑強に拒んだ。
もしこのとき拒まなければ、のちの山岡鉄舟はなかっただろう。


「これは朝命である」とすごむ西郷に
「もし島津公が同じ立場なら、あなたはこの条件を受け入れないはずである」
と決して臆することなく主張をした。


ついには西郷も折れた。
ことの重要性が分かったのだろう。
慶喜の扱いについては条件の取り下げを承知している。
西郷もさすがだと思う。


歴史に残る名場面である。
これにより、のちの勝・西郷会談の成功が決まったとされる。


もしも鉄舟が西郷に屈して条件をのんでいたらどうだったか?
戻って復命しても、幕府側が承知せず戦闘になり、江戸の町は火の海になったかも知れない。
ミントはそう思う。


西郷は、この時の鉄舟の堂々としたふるまいを絶賛したそうだ。
「金も要らぬ、名誉も要らぬ、命も要らぬ人は始末に困るが、
そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」
と。


明治時代になってからは西郷に推挙され天皇の教育係となった。
幕臣からそのことを批判されても
「朝廷への忠のなかに徳川への忠があるのだ」と言い、泰然としていた。
10年間勤めている。


清水の次郎長(1820-1893)とも親交があった。
1868年(慶応4年)8月、清水湊に停泊していた旧幕府海軍の咸臨丸が
新政府軍に攻撃され多数の死者が出た。
放置された死体を、地元の誰もが官軍に遠慮して手を出さなかった。
しかし次郎長は「仏(ほとけ)に官軍も賊軍もあるものか」と死者を供養した。
鉄舟はその時、静岡藩藩政補翼という立場だったが
それを聞いて感心し、次郎長に初めて会って意気投合したという。
次郎長も鉄舟に心服し、彼との出会いにより人間的に成長してゆく。


天皇の教育係を勤め、侠客にも心服される。
なんと人間の幅が広いことだろうか。


硬いイメージもあるがあんパンが好物だったというのが面白い。
ちなみに木村屋のあんパンは、鉄舟の取り計らいで天皇にも献上されたそうである。


1887年(明治20年)に子爵になるが、困った人には気前良く金銭を与えたため、ずっと貧乏だったそうだ。
死に際しては、皇居に向かい結跏趺坐(けっかふざ)して、姿勢が乱れる事がなかったという。
見事な生涯を全うしたのではないだろうか。


(参考文献)
Wikipedia 他


西郷隆盛山岡鉄舟の図(Webサイトより拝借いたしました)