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私が科学の仕事をするのは、自然界のもつ秘密を理解したい
という強いあこがれからです。
一方、正義を愛する私の気持ちと、社会の向上に役立ちたい
という努力は、科学的興味とは無関係のものです。
<アインシュタイン>
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1939年8月、アインシュタインは
アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト宛てに
ドイツの原子力軍事利用の可能性にふれた手紙を書く。
その手紙はこんな内容だ。
「確信は持てませんが、ドイツは非常に強大な
新型爆弾を作る可能性があります。
この爆弾を船で運び爆発させれば、その破壊力により
港ばかりかその周辺部をも壊すことができるでしょう」
エネルギーは質量であり、質量はエネルギーである。
全てのものの中には莫大なエネルギーが眠っている。
原子を破壊できれば、巨大なエネルギーを開放できる。
強力な放射性元素を作ると、次々と連鎖反応を起こし、
ウラニウム全体が大爆発する』
これが原子爆弾の原理である。
原子爆弾の研究を推し進めることとなった。
のちにアインシュタインは
このことを非常に悔やむことになる。
1940年、アメリカ国籍を正式に取得する。
1945年8月、アインシュタインは
「なんと痛ましいことだ!」
作ったわけではなかったが、のちにこう言っている。
「もしもドイツに原子爆弾を作る力がないことを
すすめたりはしなかったのに」
だがアインシュタインは、これで永久の平和が
もたらされたわけではない、と心配した。
ー我々は戦いには勝利したが、平和まで勝ちとった
わけではないー
1946年、原子科学者緊急委員会議長の役目を引き受ける。
また、国連総会に世界政府の樹立を提唱する手紙を送る。
その後、初代大統領のワイズマンが死亡したので
イスラエル政府は、大学建設に協力してくれたアインシュタインに、
第2代大統領への就任を要請した。
彼は名誉なことだと喜んだが、自分は71歳と高齢だし、
また政治家向きではないとして辞退した。
どうも彼は、心の中でユダヤ人とアラブ人との共存を願っていて、
イスラエル政府の戦闘的な姿勢には疑問を持っていた節がある。
1955年4月には、哲学者のバートランド・ラッセルとともに
核兵器の廃絶や戦争の根絶、科学技術の平和利用などを
署名する。
原子エネルギーの平和利用についても、
かなり慎重な考えを持っていたらしい。
4月13日、アインシュタインは
建国7周年を迎えるイスラエルと、同国国民へよせる
ラジオ放送の打ち合わせののち、胸の痛みに倒れる。
腹部動脈瘤の肥大だった。
4月15日にプリンストン病院に入院し、
周囲から手術を勧められるもこれを拒否する。
入院中の間、駆けつけた長男ハンスと面会した。
4月18日の午前1時すぎ、
入院先のプリンストン病院で死去する。
満76歳だった。
天才の死を惜しむ声が世界中から多数よせられた。
アインシュタインは科学的な業績だけでなく、
その生き方や人柄においても
多くの人の心をとらえていたのである。
12月にはプリンストンで追悼コンサートが開かれた。
アインシュタインは子供のころから音楽が好きであり、
とくにバイオリンが得意だったのである。
この写真を載せて人物伝を終わりたい。
アインシュタインはお茶目なところがあった。
72歳の誕生日におどけてみせたもので、
この写真は彼自身も気に入っていたものだという。
(了)
(参考文献)
Web「サイエンスチャンネル」
岡田好惠「化学の巨人アインシュタイン」
画像はWikipedia、Web から借用いたしました。
[総索引]
[人物伝]
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