*ミントの人物伝その2[第160歩・晴]

震災の事を考えると心が痛みます。
ブログも書く気がしませんでした。
しかし皆が暗いだけでは前向きではないのでしょう。
元気の出る文章や、心温まる文章が書ければと思い再開します。
難しそうですが。


ミントの人物伝(その2)
竹鶴政孝(たけつるまさたか、1894-1979)


広島県出身。ニッカウヰスキーの創業者である。
品質にこだわり続けた技術者でもあった。
ミントは20年位前に北海道の余市(よいち)に行った時、ニッカ工場を見物したことがある。
その後「ヒゲのウヰスキー誕生す」(川又一英)を買って読んだのが、竹鶴氏を知ったきっかけだった。


1916年(大正5年)、大阪の摂津酒造に入社。
洋酒製造部門の技術者として働く。
竹鶴の製造した赤玉ポートワインは評判が良かったらしい。


この頃まで日本では純国産のウイスキーは作られていなかった。
会社はウイスキー作りを計画し、1918年(大正7年)、竹鶴を英国(スコットランド)に派遣する。
人生の転機だった。
スコットランドで竹鶴は、日本で本物のウイスキーを普及させたいという夢をいだくようになったと思う。


本場のスコッチウイスキーは性質の異なる2つのウイスキーモルト、グレーン)をブレンドして作る。
製造するためにはポットステイルなどの機械設備も必要となる。
すべて一から学ばなければならない。
その製造技術を身に付けるために
竹鶴はグラスゴー大学で学びながら、現地のスコッチウイスキー醸造場を見学したり
実習を行なわせてもらうこともあったという。


充実した日々を過ごす中で、ジェシー・ロべールタ・カウン(リタ)と運命的な出逢いをする。
1920年大正9年)1月、周囲の反対を乗り越え結婚する。竹鶴26歳、リタ24歳。 
同年11月、知識と技術を身に付け、リタを連れて帰国する。


1922年(大正11年)、摂津酒造退社。
1923年(大正12年)、鳥井信治郎に招かれ、寿屋(サントリーに入社。
1924年大正13年)、山崎工場の初代工場長となる。


紆余曲折があって
1934年(昭和9年)、寿屋退社。
同年
北海道余市大日本果汁株式会社(ニッカ)を設立して
代表取締役専務に就任する。
なぜ果汁かというと、ウイスキーは製造から出荷までに数年かかるため、
その間は余市特産のりんごを使ってリンゴジュースを製造し、
その売却益でウイスキー製造を行なう予定だったのである。


1940年(昭和15年)最初のウイスキーを発売。
社名の「日」「果」をとってニッカウヰスキーと名づける。
1943年(昭和18年)正式に社長になる。
経営的には品質にこだわったため
戦後の一時期、安価な他社商品に押され苦戦したようだが
その後は順調に発展してゆく。
竹鶴は夢を実現したのである。


ところでリタのことである。
今と違って国際結婚は少なく、リタの家族からも相当反対されたらしい。
当時の英国人にとって日本に行くことは、地球の果てに行くような感覚だったと思う。
竹鶴はリタに、結婚してスコットランドに残って働いても良い、と伝えた。
しかしリタは、
「あなたには夢があります。日本に帰るべきです。
私も一緒にあなたの夢の実現を手伝いたいのです」

と答えたのである!!


リタはしっかりした女性で、日本の生活に慣れるよう懸命に努力したようだ。
漬物を漬けたり、魚を見事にさばいたりも出来たらしい。
子供はいなかったので、竹鶴の甥である威(たけし)を養子にして
実の子供のように可愛がるのである。


ウイスキー作りが軌道に乗るまでの不安な日々を過ごし
戦時下の外国人に対する辛い待遇にも耐えたリタであったが
1961年(昭和36年)に64歳で永眠する。
最大の理解者だったリタの死は、竹鶴にとっては辛いことだっただろう。


竹鶴は酒豪だった。
晩年は好きなウイスキーを飲みながら、
スコットランドを想い、リタのことを偲んでいたかも知れない。


1979年(昭和54年)、竹鶴政孝、没。
今では『日本のウイスキーの父』と呼ばれている。


(参考文献)
 Wikipedia 
 ニッカウイスキーのWebサイト 他


竹鶴政孝とリタ(ニッカウイスキーのWebサイトより拝借いたしました)