*ミントの人物伝その40[第280歩・雪]

寒いですね。春が早く来ないかな。
40回目の人物伝です。



ミントの人物伝(その40)


山田寅次郎(やまだとらじろう、1866-1957)
道家、事業家


沼田藩の家老の子として、現在の群馬県沼田市で生まれる。
16歳で茶道「宗偏流」の家元、山田家の養子となる。


1890年(明治23年)9月16日、オスマン帝国(トルコ)の軍艦
エルトゥールル号が、紀伊大島の東方海上で遭難する。
樫野崎に連なる岩礁に激突し、浸水・爆発して沈没してしまったのだ。
500名以上の犠牲者を出した大事件だった。


エルトゥールル号は、親善使節として訪日していたもので
役目を終え、横浜を前日に出航したところだった。
台風が近づいており見合わせたほうがよい、と日本側は勧告したが
無理に出航して、この難に遭ったものだった。


大島村の住民達は、総出で生存者の救助と介抱にあたった。
結果、69人が救出された。
そして10月5日に、日本海軍の「比叡」「金剛」により
オスマン帝国(以下、トルコと表記)の首都、イスタンブールに送り届けられることになる。


トルコ国内では、大島村民の救助活動や日本政府の尽力が伝えられ
当時のトルコ人は、はるか遠方の日本国と日本人に対して
好印象を抱いたといわれている。


さて寅次郎である。
彼は茶道宗偏流の跡取りではあったが、この事件に胸を痛め
民間で義捐金キャンペーンを行い、1年で約5千円の寄付を集めた。
現在の金額で1億円に相当する額だ。


彼はときの外務大臣青木周蔵を訪ねて言った。
「この義捐金をトルコに送り、遭難者遺族への慰霊金にして欲しい」と。


感動した大臣は言った。
「これはあなたが個人で集めた浄財だ。ご自身で届けたらいかがか。
たまたま海軍士官たちが、フランスに発注した軍艦を受け取りに行く。
便乗してゆけばよい」

話のわかる大臣もいたもんだ。


1892年(明治25年)、かくして渡欧した寅次郎は、イスタンブール
アブデュルハミト2世
と会見。
大いに歓迎されるが、意外な申し出を受ける。
トルコ軍の青年士官たちに、日本語や日本の精神・文化などを
教えてやって欲しいというのだ。
このことで、日本に対する関心がいかに高まっていたかが分かる。


寅次郎は承知し、士官学校の教師となる。
士官たちに日本語を教える代わりに、自らもトルコ語を学び
次第にトルコに慣れ親しんでいった。


役目を終え、教師を辞したあともトルコに留まり、日本の工芸品を販売する店を構える。
これは日本とトルコの貿易業のさきがけとなった。
彼は日本とトルコを数回行き来するが
結局20年近くイスタンブールに在住することになる。


日露戦争時には、寅次郎はイスタンブールにいたが
ボスポラス海峡を通過するロシア艦隊の動きを、ウィーン経由で日本に知らせ続けたという。
このこともあって日本海会戦で日本は圧勝し、戦争も勝利となる。
ロシアと敵対関係にあったトルコでは、ますます親日感情が高まったのである。


現在でもトルコには、日本に親しみを感じている人が多い。
それはこのような歴史背景があるからなのだ。


寅次郎が帰国してからのことである。
1924年大正13年)日本はトルコと正式に国交を結ぶ。
翌年には双方の国に大使館が設置されたが
この開設にあたっては、影に寅次郎の助言や援助があったのはいうまでもない。
彼は「日本人初めての民間大使」とも呼ばれるようになった。


また彼は資金を集め、エルトゥールル号遭難の地に慰霊碑を設置した。
ここには昭和天皇が1929年(昭和4年)にお参りされている。
寅次郎にとってトルコは第2の故郷である。
きっと嬉しかったに違いない。


1957年(昭和32年)、91歳でこの世を去る。
まさしく日本とトルコの架け橋となった人物だった。


(参考文献)
Wikipedia
「伝説のニッポン人」(話題の達人倶楽部 編集)
「日本とトルコの民間友好史」(小暮正夫氏)
写真はWebより借用いたしました。




***最近読んだ本***


「伝説のニッポン人」(話題の達人倶楽部 編集)
近代以降のあまり有名ではないが、
世界で認められた日本人35人のミニ伝記集。
西岡京治、細江静男などまったく知らなかった人物も多かった。
大変興味深かった。