*ミントの人物伝その6[第167歩・晴]

ヒラリーというとアメリカの女性政治家が頭に浮かびますが
以前は何といってもヒラリー卿が有名でした。


ミントの人物伝(その6)
エドモンド・ヒラリー(1919-2008)


ニュージーランドオークランド出身。登山家・冒険家。
人類として初めてチベット人シェルパテンジン・ノルゲイ(1914-1986)とともに
エベレスト(チベット名チョモランマ、8,848m)の登頂に成功する。


本業は養蜂業。
長身痩躯(ちょうしんそうく)であるが、巣箱を運ぶ作業で足腰が鍛えられ
登山家の活動に適した身体になったという。
稲尾和久が漁師の息子で、
子供のころから櫓をこいだので、バランス感覚が鍛えられた話とどことなく似ている。


20世紀半ばの1953年になっても
世界最高峰のエベレストはいまだに未登頂だった。

それまで英国が遠征隊を組み、1921年以来8回挑戦したが成功していない。


1924年、第3次遠征隊では「そこに山があるからだ」の名文句を残したジョージ・マロニー
ここで消息を絶っている。
1935年、第5次遠征隊にテンジンシェルパとして初参加。
1951年、第8次遠征隊にヒラリーが初参加。

彼はそれまで2万フィート(6,096m)以上の高峰を11座制していた。


1953年、酸素設備が改良され、満を持して英国第9次遠征隊が出発する。
この機会を逃せば、次の派遣までに各国が次々と隊を送り込むことが決まっていた。
何としても登頂を成功させたい遠征隊は、順調にキャンプを前進させる。


2つの頂上アタックチームのうち第1チーム、チャールズ・エバンスとトム・ボーディロンは
酸素不足で撤退するが
後に続いたヒラリーとテンジンの第2チームは、
5月29日午前11時30分、世界初のエベレスト登頂に成功する。

時にヒラリー33歳、テンジン39歳。
当時の装備が性能の悪い防寒具と酸素ボンベだったことを考えると
大変な偉業だったと思う。


「あいつを打ち負かしたよ」
これが下山して最初に仲間に告げた言葉。
控えめな彼にしては珍しく意気込んだ表現である。
登頂の興奮がそう言わせたのだろうか。


この登頂は4日後のエリザベス女王戴冠式への「最高の贈り物」となった。
この年に英国王室から騎士(サー)を贈られる。


ニュージーランド人であるにもかかわらず英国遠征隊に加入できたこと
第1チームが失敗したこと
経験豊かなテンジンとチームを組めたこと
これらを考えると
ヒラリーはつくづく強運の人だと思う。


ヒラリー卿はエベレスト登山後、南極探検などをする一方
私財を投じて「ヒマラヤ基金」を創設して、シェルパのための学校や病院などを建設した。
また登山客にモラル向上を訴え、環境保護にも力を入れていたという。


1995年には英国最高勲章であるガーター勲章を授与される。
2008年、ニュージーランドにて死去。
遺言通り、遺灰はオークランドの海に撒かれた。


ちなみに
現在では数多くの登山家がエベレスト登頂をしているが
2002年、息子のピーター・ヒラリーは、テンジンの孫であるタシ・ワンチュク・テンジンとともに
エベレスト登頂に成功している。
この時エドモンド・ヒラリーはまだ健在である。
ニュースを聞きながら、若い時のテンジンとの登頂を思い出していたかも知れない。


(参考文献)
Wikipedia


ヒラリー(左)とテンジン(Webから借用いたしました)