*ミントの人物伝その9[第172歩・晴]

友人のシゲさんから資料をいただき今回のブログを書きました。感謝。


ミントの人物伝(その9)
野中到(のなかいたる、1867-1955)、野中千代子(のなかちよこ、1871-1923)

富士山気象観測の先駆者。
夫婦二人で越冬気象観測を行なった。

二人はともに博多に生まれて育っている。
従兄弟同士であったが1891年(明治24年)に結婚した。


結婚した頃から到は気象学に関心を持つようになった。
彼は、高い山頂で気象観測を行い、長期に亘って観測データを収集することが
今後の日本の気象学の発展のために非常に重要だと考えた。


そこで彼は富士山頂での冬季気象観測を思い立つ。
まず厳冬期の富士山の様子を知るために
1895年(明治28年)2月16日、前人未到の富士山冬季単独登頂を行い、成功する。
登山装備も現在のように整ってはいない。これだけでも偉業だと思うが
その後も夏の間に山小屋を設置して
同年10月1日から一人で越冬予定での気象観測を始めるのである。


ところで千代子である。
彼女は到の計画を知ったときから夫の身を案じ、共に手伝いたいと言っていたが
周囲や到に反対されていた。
しかし御殿場で到の出発を見送ったあと、急ぎ博多に戻り実家の両親に娘を預け
ふたたび御殿場に戻る。
そして10月12日、強力(ごうりき)三人と共に富士山頂に登るのである。
登ってきた千代子を見た到はさぞかし驚いたことだろう。


千代子は強力ですら怖気づく冬季富士山登頂をなしとげた。
実は彼女はこの日に備えて、故郷の脊振山などに登って足腰を鍛えていた。
一人でここまで周到な計画を進めるひたむきさには感心してしまう。


二人で助け合いながらの気象観測が始まった。ときに到29歳、千代子24歳。
厳しい寒さに耐えながら、一日12回、2時間おきの観測を続ける。
二人を支えているのは、気象観測をなんとしても成功させたいという使命感だった。
千代子が体調を崩し扁桃腺を腫れさせたときには、到が錐(きり)で膿を出す外科手術をしている。
「おれは素人だ。素人のおれがやれば、お前を殺すことになるかもしれない」と到が言った時、
「このままでも私は呼吸がつまって死ぬかもしれません。
どうせ死ぬならあなたの手にかかって死んだほうがましです」と千代子は答えたという。

思い切った手術は幸いにも成功した。


12月になる。
気温は零下20度を下回り
ついには観測機器は凍り付いて破損。温度計の他はほとんど使用不能となったうえ
二人も凍傷・高山病に悩まされ危機に陥ってしまう。


救援隊が来たとき、二人はもうしばらく観測を続けさせてほしい、と懇願した。
この救援隊に「鬼熊」と異名を持つ強力がいたが、これを聞き二人の使命感に感動して号泣したという。
12月22日、ついに観測を断念し下山する。


中断したとはいえ、82日間にわたる冬山気象観測の壮挙は外国の新聞にも報道される。
千代子がいなければ、これだけ長期間の観測は無理だったろう。
あるいは到は死亡していたかも知れない。


千代子は1923年(大正12年)、52歳で死去する。
到は以後、富士山での越冬気象観測については二度と口にしなかった。
後年、到に褒章の話があったときも
「あの仕事は私一人でやったのではなく、千代子と二人でやったものです」
と言って結局受け取らなかったという。


1932年(昭和7年)7月1日に国立の気象観測所が富士山頂に設置される。
翌月、到はこの観測所に10日ほど滞在している。
37年前に越冬観測をした山小屋跡にも立ったことだろう。
きっと千代子と二人の命懸けの観測を思い出したに違いない。


到は冬季富士山単独登頂を成し遂げた。
千代子は夫と共に、厳冬期の富士山で長期間滞在した。
この二人がすばらしいのは
共に記録に残るようなことをしているが
それが自分のため、記録のために行なったのではない点である。


この二人は読書歴(その20)でもふれています。
ミントは千代子を主人公にした新田次郎の小説「芙蓉(ふよう)の人」をお薦めします。
今回このブログを書くにあたり改めて読み返しました。
感動の作品です。


(参考文献)
 Wikipedia
美しい日本人の物語(占部賢志氏)
 芙蓉の人新田次郎


***最近読んだ本***


「子産」上・下(宮城谷昌光
中国春秋時代後期、鄭(てい)の名執政・宰相だった子産(しさん)
礼を政治に活かしながら、改革を成功させ国力を強めた。
孔子が尊敬を寄せたとされる人物である。
当時は北方の晋と南方の楚が二大国だったことも知った。
なにせ古い時代の話であるが、現代の我々が読んでも面白い。
この作家は春秋時代の人物を題材にした作品が多い。


尺岳