*ミントの人物伝その10[第174歩・晴]

ユダヤ人を救ったのは杉原千畝(すぎはらちうね、1900-1986)だけではありません。
こんな人もいました。


ミントの人物伝(その10)
樋口季一郎(ひぐちきいちろう、1888-1970)


日本陸軍軍人、中将。
1938年、ソ連領のオトポールにて窮状にあった数千人のユダヤ人を救済する。

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杉原千畝に較べこの人物はあまり有名ではない。
軍人であったこと
救出したユダヤ人の数が明確でないこと
などがその理由らしい。


樋口はポーランド駐在武官として勤務していた昭和初年、ソ連国内を1ヶ月ほど旅行した。
グルジア地方で一人のユダヤ人の老人に会い、このように言われたという。
「日本は天皇という方がいる。その天皇こそがメシア(救世主)なのだと思う。
あなたたち日本人は我々ユダヤ人が悲しい目にあったとき、いつかどこかで
きっと助けてくれるに違いない」

樋口は不思議な気がしたことだろう。


ユダヤ人はソ連国内でも迫害された民族だった。


日露戦争時に
米国ユダヤ人協会長、ジャコブ・シフが500万ドルの戦争外債の引受けを承知したのも
日本に協力することにより、ロシア国内のユダヤ人を守ることができると考えたからだった。
その当時からロシア国内ではユダヤ人迫害がひどかったのである。


1937年(昭和12年)8月、樋口は満州関東軍ハルビン特務機関長として赴任。
同年12月26日ハルビンで第1回極東ユダヤ人大会が開催されたとき、
樋口は祝辞の中でナチスの反ユダヤ政策を批判し「ユダヤ人追放の前に彼らに土地を与えよ」と述べて
列席したユダヤ人の大喝采を浴びた。
樋口はナチスの人種差別政策に激しい憤りを抱いていた。


1938年(昭和13年)3月8日、樋口のもとに重大な情報がもたらされた。
満州国に境を接したソ連領のオトポール駅で、多数のユダヤ人が立ち往生しているという。
ナチスの迫害を逃れた多数のユダヤ人が、零下30度のシベリアから無蓋列車で到着したのだが
満州国の入国許可がおりないため、立ち往生し飢えと寒さ、病気で苦しんでいたのである。
窮状にある数千人(二万人とする資料もあるが間違いのようだ)のユダヤ人を見るにみかねた樋口は
満鉄総裁の松岡洋右に救出列車の手配を要請し、満州国にも入国許可を働きかけた。


3月12日、ハルビン駅に難民を乗せた列車が到着。救護班がすぐに駆けつけた。
十数名の凍死者が出たが、樋口の行動がなければもっと多数の死者が出たことだろう。


当時の日本はドイツと同盟国である。
同盟国の機嫌をうかがう首脳部からの叱責や処分を受けることも覚悟したに違いない。
勇気ある行動だと思う。
案の定ドイツは日本に強硬な抗議をしてきた。
樋口は関東軍司令部に呼び出され尋問をうける。
しかし結局処罰は受けなかった。
首脳部にも話の分かる人材がいたのだろうか。

1941年以降、対米戦が始まる。

1943年8月のキスカ島撤退を指揮し、無事に5200名の兵員を
脱出させることに成功する。

日本の降伏直前、ソ連対日参戦が発生。
樋口は1945年8月18日以降、占守島南樺太におけるソ連侵攻軍への
抗戦を指揮し、ソ連軍に痛撃を与えた。

戦後、ソ連は樋口を戦犯として引き渡すよう要求した。
樋口はハルビン特務機関長時代はスパイのような仕事だっただろうし
戦争末期の占守島の戦いではソ連軍に大きな打撃を与えたため
ソ連からは憎まれていたのである。
しかしマッカーサー総司令官はこれを拒否した。
樋口に助けられたユダヤ人達が、今度は樋口を救おうと運動を展開し
米国国防総省を動かしたのだった。
これがなければ樋口はシベリアに流刑されていたかも知れない。


樋口季一郎の名前はイスラエルにあるユダヤ人の恩人を顕彰する碑
「ゴールデン・ブック」に「偉大なる人道主義者・ゼネラル樋口」として刻まれている。


(参考文献)
 Wikipedia
「教科書が教えない歴史」(扶桑社)他



***最近読んだ本***


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その折々の謎を残しながら時間が経過してゆく。
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直方の河原