ミントの人物伝その70−2〔第611歩〕


いよいよアメリカ史上最大の内戦が始まります。


ミントの人物伝(その70−2)


南北戦争当時の勢力図
(青:北部、赤:南部)


1861年4月12日に南軍が連邦のサムター要塞を砲撃して
南北戦争(American Civil War)の戦端が開かれた。

バージニア州軍の司令官となるったリーは、
6月25日から7月1日まで連日ポトマック軍へ攻撃を加え、
アメリカ連合国の首都リッチモンド侵攻を断念させるに至った。

この7日間の戦いによって名声を確立したリーは、
これ以降、東部戦域の指揮を執ることになり
1861年8月には南部連合国軍大将に任命される。

リーはほとんど常に北軍よりも劣勢の軍を指揮し、
補給の欠乏に悩まされながらも、大胆な機動と敵の意表をつく攻撃によって、
北軍を翻弄し続け

第二次ブルランの戦い
フレデリックスバーグの戦い、
チャンセラーズビルの戦い、などで勝利をあげた。

また2度にわたってポトマック川を越え、北部領域への侵攻作戦を実施した。
この頃はまだ英・仏も南軍に肩入れしていた。

リーは優秀な軍人であり、戦闘では勇猛果敢だったが
普段は穏やかで人当たりのよい人格の持ち主で
決して声高に部下に命令するようなことはなかった。
デーヴィス大統領とも個人的に親しかったことで、
南部政府との軋轢がほとんど無かったと言われている。
敵である北軍からもその人格を尊敬された将軍だった。

ジェファーソン・デーヴィス


ところでリンカーンである。
当初彼は、この戦争はすぐに北軍の勝利に終わるだろう、と考えていた。
ところがどうだろう。思わぬ苦戦の連続だ。
英仏の干渉もなんとか排除したいし、
中立的な立場の西部も味方につけなければならない。

難しいかじ取りを要求される時期だったが、
リンカーンは毅然(きぜん)として戦争遂行に取り組む。
徴税権を州から連邦政府に移し財源を確保するとともに
徴兵制を実施するなど強い指導力を発揮した。

エイブラハム・リンカーン

1863年1月、リンカ−ンは奴隷解放宣言を発布した。
これは北軍兵士たちに戦争の正当性を認識させ、士気を高めただけでなく
国際的に南北戦争を「奴隷を開放するための戦争」と位置付けさせ
アメリカ連合国を承認しづらくする効果があった。
その結果、英仏の干渉を排除することに成功する。
さらにホームステッド法(自営農地法の施行により、
リンカーンは西部の農民の支持を受けることになった。


戦争初期は南軍が優勢だったが、
次第に総合力に勝る北軍が劣勢を挽回してゆく。


(続く)

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