*ミントの人物伝その17[第187歩・雨]

今日から福岡は本格的な雨です。
週末は山歩きではなくアジサイでも見に行きます。


ミントの人物伝(その17)
児玉源太郎(こだまげんたろう、1852-1906)
山口県出身。陸軍大将。
日露戦争時の満州軍総参謀長。


日露戦争開戦時に、児玉は台湾総督・内務大臣であったが、請われて対露戦の参謀次長となる。
いかに大山巌(おおやまいわお)参謀総長からの要請とはいえ
降格人事を了承したのはただごとではない。
自分がやらねばならぬ、という自負があったのだろうか。


当時のロシアは超大国である。
ロシアの常備兵力は日本の約15倍、国家予算は日本の約8倍だった。


ドイツ陸軍参謀将校で日本でも教官として教えたメッケルは
周りの大多数が「日本はロシアに負けるだろう」との観測だったのに対し
「日本には児玉がいる。彼が戦争を勝利に導くだろう」と言ったらしい。
児玉の能力はそれだけ高く評価されていたのだ。


1904年(明治37年)11月、日露戦争は重大な局面を迎えていた。
乃木希典(のぎまれすけ)率いる第3軍は、ロシアの旅順要塞を攻撃していたが
なかなか陥とせず大苦戦をしていた。


旅順攻囲戦は、旅順港に停泊しているロシア太平洋艦隊を砲撃するためだった。
もしも太平洋艦隊が無傷のままであれば、
ロシア本国から回送されたバルチック艦隊と挟撃されて、日本の連合艦隊は苦境に陥ってしまう。
海軍からも一刻も早い旅順陥落を要請されていた。


ところが旅順要塞は堅固だった。
毎分500連発のマキシム機関銃を装備したロシア軍は、日本兵を狙い撃ちして寄せつけない。
日本軍はいたづらに突撃攻撃を繰り返すのみで、3回の総攻撃も失敗していた。
攻囲戦は4ヶ月に及び、ついに日本軍の戦死者・負傷者は2万人に達した。
戦力の逐次投入というまずい戦術を採ったためとされている。


乃木は攻撃方法を見直すべきだった。
要塞のそばに203高地がある。
ここを確保すれば戦局は有利になる。また旅順港を見下ろせるので
太平洋艦隊を砲撃することもできる。
ここを早く全力で占拠すべきだったのだ。


児玉と乃木は30年来の親友だった。
見ていられないといったところだろう。
12月1日、児玉は旅順に赴き、乃木と話し合いの上
一時的に指揮権を預かるのである。


児玉は指揮を執る場所を前線に移した。
そして海岸防衛用の28センチ榴弾砲を最前線に移動させ、
12月4日早朝から203高地に砲撃を加えた。
同時に歩兵による突撃を敢行し、激闘の末、占拠することに成功する。
彼が指揮をとってからわずか4日目のことであった。


203高地に観測所が備え付けられた。
そして203高地越えで、旅順港に停泊するロシア太平洋艦隊に砲撃が加えられる。
艦隊は次々に沈められて全滅した。


「俺の用は終わった」と言い、児玉は煙台の満州軍総司令部に戻ってゆく。
このとき乃木の幕僚には、今回の自分の行動が越権行為として誤解されるかもしれないと
堅く口止めをしたらしい。


旅順要塞のロシア軍も203高地陥落後は弱体化し、ついに翌年1月1日に降伏する。
日本国民は旅順陥落の報に沸きかえった。


これにより連合艦隊は、バルチック艦隊のみを迎え撃つ準備を整えることになる。
旅順攻囲戦は、日本海海戦奉天会戦とともに、日本にとって非常に重要な戦いだったのである。


児玉は、戦争での作戦遂行だけでなく、西欧諸国での戦費調達や
アメリカを巻き込んだ講和の構想にいたるまで、あらゆる局面でからんでいたとされる。


また忘れてならないのは
児玉ケーブルといわれる海底ケーブルを日本近海に張り巡らせたこと。
これによりバルチック艦隊の進路をいち早く知ることができた。
彼は通信ネットワークの重要性を誰よりも認識していたのだ。


児玉がいなかったら戦争の帰趨はどうなったか分からない。


さて、乃木であるが、旅順攻囲戦で多数の人的被害を出したため
戦後、陸軍内で彼を非難する声が上がった。
このとき乃木をかばったのは児玉だった。
「乃木でなければ旅順は陥とせなかった」と。
軍事能力には問題があるとしつつも、友人として人間的に尊敬していたようだ。


児玉は気力を使い果たしたように、戦争が終わって8ヵ月後に死去してしまう。
豪雨の中、棺に寄り添う乃木の姿があったという。

    
(参考文献)
Wikipedia
  Web 他
写真はWebより借用しました。
   







黒髪山(屏風岩)