*ミントの人物伝その42−1[第291歩・晴]

1867年(慶応3年)11月15日。
その男が福井の足羽川沿いの土手を歩いていたとき、突風が吹き
懐中に入れていた手紙を落としてしまいました。
手紙の差出人は、その頃に京都で暗殺されていたといいます。
差出人の名は坂本龍馬
男は龍馬の友人でした。


ミントの人物伝(その42−1)


由利公正(ゆりきみまさ、1829-1909)
明治時代の政治家、東京府知事、子爵。


越前国足羽郡の福井城下で藩士、三岡義知の嫡男として生まれる。
初名は三岡八郎
長じて幕末、藩主松平慶永(春嶽)に見出される。


1857年(安政4年)、彼は藩の兵器製造所頭取となる。
ペリーの黒船が浦賀沖に来たことから
越前海岸に様式鉄砲を備えつけたり、最新式の鉄砲の量産をはかったりした。


次に彼が任されたのが藩の財政改革だった。
その頃の藩財政は火の車だった。


三岡はそのころ福井を訪れた横井小楠に会い、その殖産興業策に大いに触発される。
そして殖産興業とは何かを実際に学ぶために、横井とともに西国各地を旅行する。
下関では物産取引の実情を学んだという。


やがて彼は考えた。


−民が富めばおのずから国(藩)が富むはずだ。産業を振興させねばならぬ。
 そしてわが藩の産業と言えば生糸だ。−


三岡は、藩の特産品である生糸を拡販するために、横浜・長崎に藩の蔵屋敷を立てて
オランダとの生糸販売ルートを確立した。
農家からは、商人よりも高い価格で生糸を仕入れ、それを外国に販売したのである。
藩が商社になったようなものだろう。
この方法は、藩に巨額の利益をもたらした。

一方で藩札の発行を行い、藩内の生糸生産業者に低利の融資を行なうことにより
生産の奨励を図ったりした。


このようにして三岡八郎は、窮乏していた藩財政を見事に再建するのである。
1861年文久元年)には物産輸出額は300万両にも達し、藩金庫には50万両を
貯蔵できるまでになった。


武士が、それも藩ぐるみで商売をするなど、前代未聞だったのではないか。
商売は商人が行い、藩は上納金を受け取る。
これがそれまでのしきたりだったのだから。


幕末に、名君とはいえ松平慶永が存在感を示せたり、橋本左内らの志士たちが
国事に奔走できたのも、福井藩に潤沢な資金があったからである。


ちなみに幕末の雄藩は、例外なく財政再建を果たした藩だった。
長州は村田清風が中心となり、紙や塩、蝋(ろう)などの産業育成で財政を立て直し、
薩摩は、調所広郷が藩債務の事実上の踏み倒しをするとともに、砂糖販売や密貿易で収入を大いに増やした。
この潤沢な資金をもとに軍事力を増強できた藩が、幕末回転の主力となったのである。


松平慶永が幕府政治総裁職に就任すると、三岡は慶永の側用人になる。
1858年(安政6年)、第14代将軍を紀伊藩主の慶福にするか、
それとも一橋藩主の慶喜にするかの継嗣問題が発生する。
一橋派であった慶永が隠居を命じられたため、三岡は、大老井伊直弼を除くことを計画したりした。
挫折し、福井城下で謹慎処分となったが、この時期、坂本龍馬と知り合いになる。


龍馬はこのとき神戸海軍操練所の塾頭だったが
幕府から渡される運転資金が不足してきたので、松平慶永に援助を求めに来たのである。
ちなみに慶永は龍馬と会って、5千両の資金拠出を約束している。


龍馬は、藩財政を見事に立て直した三岡にも非常に関心があったようだ。
三岡は謹慎中だったが、横井小楠を通じて二人は会い、大いに意気投合したという。


「やあ三岡、話すことが山ほどあるぜよ」
1867年(慶応3年)11月2日、二度目の福井来訪時には、龍馬は大きな声で呼びかけた。
そばに謹慎者を見張る立会人がいても、おかまいなしだった。
いかにも龍馬らしい。


龍馬の用件は、財政担当として、新政府への参加要請だった。
二人は福井城下の煙草屋旅館で、一日中、日本の将来について語り合ったという。

 
2回の対談により、二人は親友と言ってよいほど、肝胆相照らす仲になったのだが・・


龍馬が暗殺されたのは、それから13日後である。
愕然としながらも三岡は思った。


−龍馬の遺志を、きっと新しい世の中に活かし残そう−と。


(続く)



(参考文献)
「英傑の日本史」(井沢元彦
Wikipedia
その他のHP  
写真はWikipediaから借用しました。