*ミントの人物伝その42−2[第292歩・晴]

引き続き、由利公正の2回目です。
かれは新政府においても、大きな業績を挙げることになります。


ミントの人物伝(その42−2)


明治新政府は、財政的には嵐の門出だった。


新政府は、戊辰戦争に多額の費用を要していたし
江戸幕府が外国に対して持っていた債務も引き継いでいた。


一方では今後、廃藩置県や士族の解体などの制度変更における出費や、
殖産興業・軍近代化のための膨大な費用が必要になることが予想された。


これに対して、幕末から日本の経済状態は決して良くなかった。
金銀の交換比率が外国と日本とで異なっていたので、金が大量に海外に流出し
1867年(慶応3年)のころには、物価が非常に高騰していたのだ。
経済的に混乱していては、税収増を期待することも出来なかった。


新政府に参加した三岡改め由利公正は、会計事務掛・御用金穀取締となる。
まず彼が手掛けたことは、太政官札(だじょうかんさつ)の発行だった。
これは由利のアイデアだが、きわめて画期的なことだった。


太政官札>


太政官札は、1868年(慶応4年)5月から1869年(明治2年)まで発行された
日本最初の紙幣(金札)である。
使用期限は13年間とされ、4800万両が発行された。


当初は、流通が困難をきわめた。
金と交換できない不換紙幣だったため、なかなか信用されなかったためである。
あまり評判の良くなかった太政官札だが
この発行益によって、戊辰戦争の戦費を含む財政支出の94%をまかなうことが出来た。
もし太政官札の発行がなければ、国庫は破綻していただろう。


また普通であれば、大量の紙幣を発行すれば、経済は混乱しインフレを招くのだが
実際はさほどの混乱はなく、かえって物価は安定したという。
それは、通貨発行と「文明開化政策」・「軍備の近代化」などが同時になされ
経済が活性化した結果、物資や商品の流通が良くなったためらしい。
由利を、日本初のケインジアンだと褒め称える学者もいる。


新政府の初期の財政危機は、由利のおかげで克服できた、と言っても良い。


一方で由利は、新政府の基本方針である「議事体大意(ぎじのていたいい)」を考案する。
その根底には盟友、坂本龍馬の国家思想船中八策があった。
彼は龍馬のことを決して忘れてはいなかったのだ。


<議事体大意>
1.庶民志を遂げ人心をして倦まざるしむるを欲す。
1.士民心を一にして盛んに経綸を行うを要す。
1.智識を世界に求め広く皇基を振起せべし。
1.貢士期限をもって賢才に譲るべし。
1.万機公論に決し私に論ずるなかれ。


明治天皇が、公家や各地の大名などに示した基本方針が、
五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)」
であるが、これは由利の主張により作成された。
その原案となったのは「議事体大意」なので
結果的に龍馬の遺志が、新政府の基本方針に活かされることになった。


1871年明治4年東京府知事となる。
彼は、銀座の街並みを美しく整備したり
煉瓦造りの建物を数多く建てて、防火対策を推進したという。


また、1874年(明治7年)には、板垣退助江藤新平らとともに
政府に対して、民撰議院設立建白書を提出している。
「議事体大意」にも述べているように、自由民権の推進・議会設立には積極的だったようだ。


藩と国の危機を救った稀代の財政通は
1909年(明治42年)に死去する。
享年79歳。


「わしも長生きしたが、もうすぐ君のもとへ行くよ。 また、ともに酒を飲もう」


由利は最後に、龍馬にこう語りかけたかもしれない。



(参考文献)
「英傑の日本史」(井沢元彦
Wikipedia
その他のHP  
写真はWikipediaから借用しました。