ミントの人物伝98②〔第949歩〕

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「新平、死ぬな!

彼は友情を大事にする男だった。

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*ミントの人物伝98②

 

1873年明治6年)10月、

征韓論をめぐって政変(明治6年の政変)がおこり

西郷隆盛(鹿児島)

板垣退助(高知)

副島種臣(佐賀)

後藤象二郎(高知)

らが下野(辞任)したが、大木喬任の友人であり司法卿だった

江藤新平もまた下野をした。

 

その江藤新平のもとへ、佐賀から「征韓党」の使者が来て

党首になってほしいと懇願される。

 

このころの佐賀は、征韓論を奉じる反政府的な「征韓党」と、

封建時代への回帰を目指す保守的な憂国党」が結成されていた。

二つの党は性格が異なるが、反政府の点で一致していた。

 

年が替わり、1874年(明治7年)となる。

江藤は帰郷して党の話を聞いてみようと考えた。 

太政官より発せられた「前参議は東京に滞在すべし」との

命令を無視する形で佐賀に戻ることにしたのだ。

 

江藤新平

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聞いた大木は驚いた。

彼は江藤のあとを継いで参議兼司法卿となっていた。

 

ーなんてことだ。江藤が佐賀に戻れば、間違いなく征韓党の

 者たちにとり込まれてしまうだろうー

 

このころ、右大臣岩倉具視が征韓派の士族に襲われるという

事件があって、政府も非常に警戒感を抱くようになっている。

最悪の場合、政府と征韓派との衝突があるかもしれない。

 

「江藤を止めろ!腕ずくでかまわん。

 話してもお前たちが論破されるだけだ」

 

大木は即座に佐賀出身の官吏を3人派遣して、江藤を

連れ戻そうとした。

だが時すでに遅く、彼らが横浜に着いた時には、すでに江藤が

乗船した船は出航した後だった。

 

「新平!死ぬな・・」

大木は若くして死んだ友、中野方蔵のことが思い出されて

ならなかった。 

 

同年2月1日、

憂国党の武士が、官金預かり業者である小野組におしかけ、

そのため店員らが逃亡するという事件が起こった。

これは党の活動資金を借りようとしたものだったが

すぐに内務省に電報で通知され、

憂国党が小野組を襲った」、と誤って伝わってしまう。

 

2月4日、政府は熊本鎮台司令長官である谷干城(たにたてき)

佐賀士族の鎮圧を命令する。

 

その中、大木の友人の島義勇(しまよしたけ)は、

沸騰する佐賀県士族を鎮撫するため佐賀に向かったが、

その途中、故郷を守るためには官兵を打ち払わなければならない、

と決意。

それまで不仲だった江藤と会談し、共に立つ決意を固めた。

島は憂国党の党首になる。

 

2月9日、内務卿大久保利通は、東京から引き連れた部隊に加えて

大阪の鎮台部隊を動員し、博多に向かった。

 

大久保利通

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ついに戦闘が始まった。

大久保は本隊を進撃させて、各所で佐賀軍を打ち破る。

 

敗退した江藤は征韓党を解散し、鹿児島の西郷隆盛に助力を

求めるため戦場を離脱した。

2月27日には鹿児島に入り、西郷に面談して説得をこころみたが、

西郷に決起の意志はなかったため、今度は土佐に向かい

片岡健吉らに挙兵を訴えた。

ところが、すでにここにも手配書がまわっており、

3月29日、ついに江藤は高知県の東洋町で捕縛される。

 

島もまた、島津久光に決起を訴えるべく鹿児島へ向かったが、

3月7日に捕縛されている

 

江藤は東京での裁判を望んだが、

わずか2日間の審議で、11名が4月13日の判決当日に斬首となり、

江藤と島は梟首(さらし首)とされた

答弁や上訴の機会も十分に与えられなかったという。

 

大木は江藤らが捕えられてから、

死刑にだけはならぬよう、政府内を奔走したがかなわなかった。

 

この佐賀の乱がきっかけとなり、こののち1877年(明治10年)の

西南戦争まで不平士族の乱が続くことになる。

 

その後の明治14年の政変では、憲法制定・国会開設をめぐり

佐賀出身の参議大隈重信が罷免される。

 

大木の友だった江藤や島は死に、副島や大隈は閣外に去った。

政府内を見渡すと

いまや佐賀出身の政治家は大木だけになってしまった。

 

ひとり酒を飲みながら思い出すのは

江藤や島らとともに過ごした若き日の義祭同盟の熱気だった。

 

のちに大木は総裁として民法典編纂に関わったあと

元老院議長などの要職を歴任する。

 

1884年明治17年)、伯爵に叙せられる。

佐賀出身の政治家として出世頭といってよい。

 

1889年(明治32年)に死去する、享年68。

 

彼は明治の六大教育家の1人に数えられている。

 

 

(了)

 

 

(参考文献)

Wikipedia

 Web「佐賀の賢人たち」

 写真や画像はWikipedia、Web から借用いたしました。

 

 

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