河村瑞賢②<ミントの人物伝Ⅱその7>[第1,082歩]

老人は若者にきいた。どういう意味だね?と。

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この頃、畿内では台風襲来や洪水の発生で、大きな被害がでていた。

1683年(天和3年)、幕府は若年寄稲葉正休畿内の治水対策を

たてるよう命じ、正休は瑞賢に河川調査を任せた。

瑞賢は徹底した調査を行い、その報告を見た正休は感心し、

この治水工事は彼に任せるべきだ、と幕府に伝える。

 

瑞賢は有能な商人なので合理的判断能力に優れていたが、

土木技術に関しても相当の知識を持っていたのだ。

 

かくしてふたたび瑞賢が動き出す。ときに瑞賢、67歳。

 

ーわしは幸いにも富を得たが、あとは人のために役立つことに

 残された時間を使おうー

 

1684年(貞享元年)彼は淀川の河口を詳しく調査した。その結果

・川の水が海にそそぐ場所に九条島があるため土砂が堆積する

・そのため水の流れが悪くなっているので水害が発生しやすい

と気がついた。

解消するには九条島を突っ切る川(安治川)を造ればいいと考えた。

瑞賢は効率的に工事を行い、

わずか20日間で安治川を完成させるのである。

 

彼はこのほか

・中津川と淀川とに分かれる分流地点で工事を行い、二つの水量を

 ほぼ同じにした。

・淀川は大坂城近くで土佐堀川堂島川、曽根崎川の三つに分かれるが、

 堂島川にたまっていた土砂をかき出し、川水が流れるようにした。

 

工事は順調にすすんでいたが、大事件が発生する。

稲葉正休大老堀田正俊を殿中で刺殺してしまったのだ。

正休は工事の責任者だったので工事は中止になってしまった。

 

だが瑞賢はあきらめなかった。

江戸に戻り、熱心に工事の継続を幕府に訴えた。

彼の思いが通じ、幕府は工事再開を瑞賢に命じるのである。

 

このあと瑞賢は

大和川の改修を行う。

神崎川河口、中津川の水深を深くする。

などの工事に取り組むのだった。

 

瑞賢は淀川改修の工事を4年間で完成させた。

水害はなくなり、川岸に蔵屋敷が増え、田畑は作物がよく

みのるようになったのである。

 

瑞賢の記念碑

 

ところで瑞賢が江戸にいたとき、彼はひとりの若者に出会っている。

若者は瑞賢の息子の学友で、新井勘解由と名乗った。

瑞賢は会って話しているうちに、この若者は

将来は大変な学者になるかもしれないと思った。

瑞賢はぜひ自分の孫娘の婿になってほしいと思い、こう言った。

 

「婿にきてほしい。三千両の支度金を渡すが」

 

この当時の三千両は、5年間のひと家族の生活費に相当する大金だ。

これに対し、若者は笑いを浮かべて言った。

 

「せっかくのお申し出ですがお断りいたします。

小蛇(しょうじゃ)口端(こうたん)に小疵(しょうし)を負う、

ことになりますので」

 

「どういう意味だね?」

 

「小さな蛇が負った口元の小さな傷も、やがて大蛇になれば

その傷は大きくなる一方だということです」

 

瑞賢は三千両に動じない男を初めて見た。

またこの若者が

たとえ今後大成するとしても、「若い頃に金に目がくらんだ男だ」

という疵を負いたくないのだ、とわかり非常に感動した。

 

ーこの男はきっと大成するに違いないー

 

この若者こそのちの新井白石である。

彼は後年、徳川家宣や家継のもとで幕政に敏腕をふるうことになるが、

このときはまだ木下順庵の門下生だった。

のちに白石も、瑞賢をその著書「奥羽開運記」畿内治河記」の中で

ほめたたえ、「天下に並べるものがない富商」と賞賛している。

 

新井白石

 

1689年(元禄2年)瑞賢は越後の銀山開発を命じられた。

瑞賢は有望な白峯(しらふ)銀山を発見する。

その銀山は従来からある上田銀山とあわせて

大福銀山と呼ばれることになり瑞賢が管理を任された。

彼は労働者である農民をいたわりながら経営にあたり

大きな成果を出したのだった。

 

こののち長年の疲れが出たのか健康を害したので

1692年(元禄5年)、3年で銀山経営を辞して江戸に戻った。

瑞賢は75歳になっていた。

 

それから5年間病をいやすことに努める。

病床で彼が夢見たことは、実現はできなかったが、

無人島である小笠原諸島の開発だった。

 

やや体調が回復した1697年(元禄10年)、瑞賢は

将軍の綱吉から呼び出された。

綱吉は彼の功績を誉め、身体を大事にするよう伝えた。

そして翌年3月に瑞賢に対し

録米150俵の支給と旗本の地位を与えたのだった。

貧農出身の商人が旗本になることは、

身分制度が確立しているこの時代では異例のことだった。

 

瑞賢は商人として成功者だったが、世のため尽くしたことにより

大きな名誉も手に入れることになったのである。

 

晩年の瑞賢がふと思い出すことがあった。

それはかつて出会った一人の男。

 

ーたしか勘解由といったか、すばらしい学識を持っていたが・・

 あの男はどうしているのだろうー

 

1699年(元禄12年)河村瑞賢 死去

82年の生涯だった。

 

この頃新井勘解由(白石)は甲府宰相の徳川綱豊に仕えている。

綱豊が六代将軍家宣となり、白石が幕政で活躍するようになるのは

もう少し先の話である。

 

(了)

 

参考文献 Wikipedia

「商人を超えた日本の偉人河村瑞賢」南伊勢町教育委員会HP

「江戸を造った男」伊東潤

写真はWebから借用させていただきました。

 

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