*ミントの人物伝その18[第189歩・晴]

大昔の人物は正直よく分かりません。
想像を働かせて書きます。♪


ミントの人物伝(その18)
阿倍仲麻呂(あべのなかまろ、698-770)
奈良時代の遣唐留学生。唐朝で高官となる。


717年(霊亀2年)、仲麻呂遣唐使に同行して長安に留学する。
「あおによし 奈良の都は 咲く花の にほふが如く いま盛りなり」
と謳われた奈良の都も、長安とは較べようもない。
当時の長安は、玄宗皇帝のもと、文化・経済の発展した世界最大の国際都市だった。
若き仲麻呂も、青雲の志を持って、
「この大都市で自分の才能を発揮させたい」と願ったに違いない。


長安太学で学び、日本人でありながら超難関の科挙に合格する。

彼は相当の秀才だったのだろうが、まさに快挙だった。


仲麻呂玄宗に仕え、学才を認められる。
中国名で「朝衡(ちょうこう)」とよばれ、重用されて順調に出世してゆく。
753年(天平勝宝5年)には秘書監になっている。
ここまで出世した日本人は他にいない。
玄宗の引き立てもあっただろうが、おそらく性格も温厚で政敵も少なかったのだと思う。
続日本紀』には
「わが朝の学生(がくしょう)にして名を唐国にあげる者は、
ただ大臣(吉備真備)および朝衡の二人のみ」

とある。
仲麻呂は海外で日本人の名を高からしめた最初の人物だろう。
もしかすると彼は
「やがては大唐帝国を我が手で動かしたい」という意欲を持っていたかもしれない。


733年(天平5年)に遣唐使が来て帰国のチャンスがあったが、そのときは見送っている。
まだ長安で高位を目指したかったし、玄宗の信任も厚く、帰国させてくれなかったのだ。


752年(天平勝宝4年)、遣唐使が来唐する。
このときは仲麻呂も望郷の念が強くなっていた。
50歳をとうに過ぎている。唐に渡って35年も経っていたのだ。
異国の地で栄光を手に入れた人間でも、年をとると故郷が恋しくなるのだろうか。
それとも王朝内での権力争いを目にして、政治に嫌気がさしてきたのだろうか。


玄宗の許しを得て、
753年(天平勝宝5年)、帰国することとなった。
帰国前の送別会で、友人の王維(おうい)が惜別の詩(うた)を詠(よ)んでくれた。
仲麻呂には
「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」
という非常に有名な歌があるが
これはこの時、王維ら友人の前で、日本語で歌ったものらしい。


仲麻呂は帰国の途につく。
ところが
彼の乗った船は難破して、安南(ベトナム)に漂着してしまった。


仲麻呂が死亡したとの誤報を伝え聞いて
今度は李白(りはく)が、彼を悼む詩を詠んだ。
仲麻呂は人に愛され親しまれていたのだろう。


再び彼が長安に戻ったのは755年(天平勝宝7年)だった。
ちょうどこの年、安禄山・史思明の乱が始まっている。
だが彼は幸いにも、騒乱に巻き込まれたり、危害を受けることはなかったようだ。


その後は再び官途に就いて、最後は大都督(従二品)となるが
結局帰国は叶わずに
770年、(宝亀元年)1月に生涯を閉じた。
病床の彼の脳裏には三笠山が浮かんでいたかもしれない。
彼が無事に帰国していたならば、日本の歴史にもきっと名を残したことと思う。


それほど記録が残っているわけではないが、仲麻呂の生涯はロマンにあふれている。


ところで日本時代の彼には満月丸という子供がいて
その子孫があの阿倍晴明(あべのせいめい)だという説があります。
夢のある話ですね。


(参考文献)
Wikipedia
 Web 他
図画はWebより借用いたしました。


***最近読んだ本***


管仲(かんちゅう)上・下」(宮城谷昌光
中国の春秋時代、最初の覇者は斉の桓公(せいのかんこう)だが
彼を覇者にしたのは執政である管仲だった。
特に上巻では「管鮑(かんぽう)の交わり」で知られる鮑叔(ほうしゅく)との友情や恋、
若き日の苦難時代などが描かれる。
フィクションも多いと思うが面白かった。


黒髪山(雌岳)