ロンメルはイギリス製のゴーグルを愛用していました。
リビアでの戦闘時に拾ったものです。
敵軍の持ち物であっても、彼は特に気にしなかったんですね。]
ミントの人物伝(38−2)
1940年5月10日、ドイツはベルギー・フランスに侵攻する。
西方電撃戦の開始だ。
ロンメルの第7装甲師団は6月までの間に、常に軍団の先頭に立ち快進撃を続けた。
あまりにその進軍が早く、イギリス・フランス連合軍にしてみると
いつの間にか前線を通り抜けられていることもしばしばで、
「幽霊師団」と呼ばれ恐れられたという。
5月、ベルギーが降伏。
6月14日にはパリが陥落、そしてフランスが降伏する。
ロンメルは、この西方電撃戦を通じ
アラスやシェルブールの戦いで戦功をあげた。
命令を無視した独断行動も多かったが、彼の上司であるヘルマン・ホト大将は
「常に前線に立とうという意欲、テンポの早い局面で決定的なポイントを察知する
彼の能力は素晴らしい」
と褒めている。
こののちロンメルは、一旦ドイツに戻り休養をる。
この間に宣伝相ゲッペルスの依頼により、戦争映画の製作指導をすることになった。
ロンメル自身出演もしている『西方における勝利』というこの映画により
彼は銀幕のスターにもなったのである。
1941年1月に中将、そして2月にはドイツ・アフリカ軍団の軍団長となる。
ロンメルは2個師団の戦車300台を率いて、同盟国イタリアが失った北アフリカの勢力圏を
イギリスから奪回することが求められた。
ロンメルの名声を不動にした北アフリカ戦線である。
砂漠での戦闘となるので戦車が主兵器になる。
物量に勝るイギリス軍に対し、ロンメルは様々な戦術を駆使して勝利を重ねてゆく。
戦車をぐるぐる周回させ土煙をあげさせ、大戦車隊がいるように見せかけたため
イギリス軍は、せっかく獲得した占領地を放棄してしまったこともあった。
1941年7月に装甲大将になり、1942年1月には上級大将となる。
1942年6月にガザラの戦いで勝利し、キレナイカ、トブルクを陥落させる。
この功績でついにロンメルは元帥になる。
開戦時は少将だったのが、3年足らずで中将、大将、元帥である。
このとき50歳。
ドイツ史上最年少の元帥だった。
ロンメルの指揮の下、この戦域ではドイツ軍は騎士道精神を貫いて、誇り高く戦った。
彼は自分の部下を大事にしたが
国際条約を遵守して、捕虜も丁重に取り扱ったのである。
そのため、敵国のイギリス兵からも尊敬を集めることになった。
ロンメルはアメリカでも、ヒトラーに次ぐ有名なドイツ人だったという。
このように善戦していたロンメルではあるが、1941年12月のアメリカ参戦の頃から
ドイツ・イタリア軍と、連合国軍との戦力差が顕著になってゆく。
ロンメルは従来より戦力の増強を求めていたが
すでにソ連との戦いを始めていた本国にはその余裕はなかった。
(続く)