*ミントの人物伝その39−1[第276歩・晴]

1937年(昭和12年ヘレン・ケラーが来日したとき
心の師としていた人のブロンズ像に手を触れました。
なんとその人は、江戸時代の日本人でした。


(ミントの人物伝その39−1)


塙保己一はなわほきいち、1746-1821)
江戸時代後期の国学者
総検校。



武蔵国児玉郡保木野村(現在の埼玉県本庄市児玉町)で
農民の子として生まれる。
幼名は寅之助。7歳のときから辰之助
ただし彼が生まれた荻野家は、平安時代の学者である
小野篁(おののたかむら)の子孫になるらしい。


保己一は、始めての男子だったので大事に育てられたが
7歳の春に失明してしまう。


手のひらに字を書いてもらい文字を覚えたが
盲目の保己一が、友達とも遊べずに、さびしそうにしているのを見て
父親は近くの寺子屋の和尚に、寺子屋で話を聞かせてやって欲しいと頼んだ。


ところが保己一は、寺子屋で勉強しているほかの子が
大きな声で本を読んでいると、その内容をそのまま覚えてしまう。
それを知り驚いた和尚が、保己一に「太平記」を特別に読んできかせてみた。
すると保己一は、40巻もある内容を、すべて暗記してしまったという。
彼は生まれつき驚異的な記憶力を持っていたのである。


江戸では「太平記読み」という職業があると聞き
−40巻ぐらいの内容を暗記するのは自分でも出来る。
いずれにしても、このまま村にいても何も変わらない。
家族のお荷物で終わるより、江戸に出て自分の力をためしてみたい−


12歳で母親を失くしたあと、保己一は父親に言った。
「江戸に行かせてください。きっと身を立ててみせます」
彼はこの頃から、学問で身を立てたいとひそかに考えるようになっていた。


江戸に出た保己一は、盲人一座への入門が許され
雨富検校(あめとみけんぎょう)の屋敷に住み込むことになる。
15歳のときである。


当時の盲人たちは幕府公認で「当道座」を作っていた。
これは一種の職業組合であり、厳格な階級制度があり
上から「検校」「勾当(こうとう)」「衆分(しゅうぶん)」となる。
衆分になるのは非常に難しく、大多数の盲人は平(ひら)のまま生涯を終えていた。
また検校ともなると、大名からもうらやましがられるほどの金を蓄え
ぜいたくな生活をしていたという。


盲人の仕事は、按摩、はり治療、三味線、琴などである。
それに幕府から特別に、金貸し業が認められていた。
保己一は、これらのことが不器用で、なかなか上達しない。
ましてや、気の優しい彼に、借金の取立てなど出来るはずがなかった。


−もともと学問で身を立てたいと思っていたのに、このような毎日で良いのだろうか−


16歳のある日、思い悩み自殺しようとしたが
両親の顔を思い浮かべて、死ぬことを思いとどまったという。


そのあと思い切って、師匠の雨富検校に、学問をしたいと訴えた。


師匠は言った。
「お前は生きてゆくための業(わざ)が何一つ身についていないので
気になっていたが、それほど学問が好きなのか・・
盲人でありながら、学問で身を立てるのは難しいと思うが
そのつもりがあれば、私が三年間だけ面倒をみてあげよう。
ただしものにならなかったら家に帰すが、それでも良いか?」


願ってもない話だった。
不得意の業の修行はせずに勉学をさせてくれるという。
天にも昇る気持ちだった。


(続く)


(参考文献)
Wikipedia
塙保己一資料館HP
塙保己一とともに」(堺正一)
写真・画像は塙保己一資料館HPから借用いたしました。



***最近読んだ本***


塙保己一とともに」(堺正一)
名前だけは知っていたが、読んで非常に感銘をうけた。
今回の人物伝のもとになっている。


「非戦の人ジャネット・ランキン」(メアリー・バーマイヤー・オブライエン)
二つの大戦で、ともにアメリカの参戦に反対をした、ただ一人の合衆国連邦議員がいた。
アメリカの良心とも呼ばれたその人物は、史上初の女性議員でもあった。
そのジャネット・ランキンの生涯を描いている。
この人物のことは知らなかった。