*ミントの人物伝その39−2[第277歩・雨のち晴]

ヘレン・ケラーは、塙保己一のブロンズ像と、彼が愛用した小さな机を
なつかしそうに、繰り返し両手でなでました。
それはまるで、以前から親しかった人に再会したかのようでした。


(ミントの人物伝その39−2)



保己一は師匠である雨富検校のはからいで
国学者萩原宗固(はぎはらそうこ)の下で学ぶ。


漢学・神道律令・歴史・漢方医学などを学んだが
その進歩はめざましいものがあった。
やがて門人の中でも肩を並べる者なし、と言われるようになった。
雨富検校もほっとしたことだろう。


また、熱心に学問に取り組む保己一の姿勢は
多くの人の感動を呼び、彼を支えることになる。


彼の勉強は、全て耳から聞き取る方法だ。
一度聞いたことは忘れない素晴らしい記憶力を持っていて
それは死の直前まで衰えることはなかった。
大田南畝は保己一のことを
『博覧強記にして書、万巻を暗誦す』と評している。


彼は記憶するだけではなくて、その知識をきちんと頭の中で分類・保管しており
必要なときにすぐに取り出すことが出来たという。


江戸に出て6年後、保己一は「衆分」になる。
学問がしやすいようにとの雨富検校夫妻のはからいだった。
地位があると、大事な書物を借り受けしやすくなるのである。


また雨富検校は保己一の健康を心配し、父親と関西旅行をさせたりもした。
旅行から戻った保己一は、心身ともに健康になったという。
保己一の師匠に対する感謝の念は、いかばかりだったろうか。


そののち、国学の大家賀茂真淵(かものまぶち)に「六国史」などを学ぶ。
残念ながら賀茂真淵は半年後に亡くなったため、期間は短かったが
学んだことは非常に大きかった。


1775年(安永4年)「勾当」になる。
塙保己一を名乗るようになり、雨富検校の一座から高井大隈守の屋敷に移る。
ここは多くの蔵書があって、学問をするのに都合が良かったのである。


保己一の律令や歴史などの学問は、さらに進んでいった。
彼はやがて決心する。


−私は歴史や古代律令の研究者として、世の中で役に立ちたい。
そしてそのために
古くからの貴重な書物を集めて、次世代に確実に伝えてゆく仕事をしたい−


気の遠くなるような、大変な事業である。
単に文書を集めるだけでなく、内容に間違いがあれば
正(ただ)して出版しようというのだ。


これまでこの様なことを手掛けた者はいなかった。
中国にある全集のようなものは当時の日本にはなく
貴重な書物は家伝・秘伝と称して、外部には出回っていなかった。
このままでは貴重な文書が散逸してしまう、と保己一は危機感を抱いたのだ。
保己一34歳のときである。


彼は菅原道真を守護神としていた。
関西旅行で、京都の北野天満宮に参拝したときから
学問の神様である菅原道真をあがめるようになったという。
その菅原道真は『類聚国史(るいじゅうこくし)』という文献集を作っている。
それにならって保己一は、これから作る文献集の名前を
群書類従(ぐんしょるいじゅう)』と名付けることにした。


(続く)


(参考文献)
Wikipedia
塙保己一資料館HP
塙保己一とともに」(堺正一)
写真・画像は塙保己一資料館HPから借用いたしました。