*ミントの人物伝その52−1[第359歩]

これは百万人以上の命を救った人物の話です。


ミントの人物伝(その52−1)


耶律楚材(やりつそざい、1190−1244)
モンゴル帝国の宰相


楚材の家は遼の王族出身であり、出自は契丹人である。
ただ楚材が生まれる前、1125年に遼は金に滅ぼされている。
父の耶律履(やりつり)は金において
宰相級である尚書右丞となった。
楚材はその三男(末子)として生まれた子である。


楚材は金で成人すると尚書省の下級官僚になった。
彼は美しい立派なひげをしていて、背も高かったという。


モンゴルが金に侵攻し、1214年に中都が陥落したとき捕虜となる。
しかし彼は中国の天文と卜占に通じていたためチンギス・ハーンの目に止まり、
召し出される。ときに楚材は24歳。


チンギスは言った。
「お前は遼の王族に連なる家系だそうだな。わしが遼を亡ぼした金に復讐をしてやろう。
お前もそれを望むであろう?」
楚材は答える。
「遼が亡ぼされたのは私が生まれるはるか昔のこと。
私の祖父や父は永い間、金の大臣として仕えてきました。
なぜ私がいまさら金の滅亡を望みましょうか」


チンギスはこの答えを聞いて非常に感心した。


−今まで自分の前に出てきた捕虜は命乞いばかりしていたが
この男はどうだ。死を恐れず堂々と意見を述べるではないか−


死を恐れない勇敢さは、モンゴル人の好むところだ。
楚材はチンギスに気に入られ、側近として仕えることになった。


彼はチンギスに『ウルツサハリ』と呼ばれた。
長いひげの人、といった意味だが、呼び捨てにされなかったというのは
いかに優遇されたかをあらわすものだろう。


チンギス・ハーン


1219年からの中央アジア遠征でもチンギスの本隊に随行するようになった。
しかし同行先で楚材が見たのは、すさまじいモンゴルの破壊力だった。
サマルカンド、ブハラ、バグダッドなど、抵抗する町は破壊され
住民は虐殺され、財宝や美女はすべて奪い去られた。
残った土地には草木一本生えていなかったという。


この時期のモンゴル人は、抵抗する国々の人民を容赦なく皆殺しにしていた。
遊牧・狩猟で暮らす草原の民にとって、富を増やす手段というのは
他人の土地や財産を奪い取ることだったのだ。
降伏する国民は奴隷にするが、従わなければ皆殺しである。
それは乾いた『草原の掟』でもあった。


−このままではモンゴルの支配地は文明が破壊されてしまう。
何とかしなければならない。
よし、わたしはそのために死ぬ覚悟で取り組もう−


楚材はついにチンギスに進言した。
「これからは収奪ではなく、貿易によって富を蓄積させ、国を発展させるべきです。
住民を殺してしまっては何も得るものがなくなります」


出来るだけ不毛な殺戮を避けるように必死に働きかけた結果
次第にチンギスもその考えに変わっていった。
たしかに今後は、築き上げた帝国をいかに経営するかを考えてゆかねばならない。
幸いなことに元々チンギスは賢明な人間であり、有能な部下の言うことには
よく耳を傾けたのである。


このように楚材は次第に重用されるようになっていったが
チンギスも65歳となり、ついに病に倒れるときがきた。


1227年8月、死期が近いことを悟ったチンギスは息子達に言った。
「ウルツサハリは天がわがモンゴルに与えた宝である。
お前達は彼の言うことをよく聞くのだ」


それが史上空前の大帝国を築き上げた男の遺言となった。


(続く)


(参考文献)
Wikipedia
「耶律楚材」(陳舜臣
「中国傑物伝」(同)
写真はWebから借用しました。


[平成23年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111231


[平成22年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111230



日本画家の竹内浩一氏が、六本松で展覧会を開くと聞きました。
興味があるので見に行ってみたいと思います。
ギャラリー松井(福岡市中央区六本松2-4-11、092-712-5145・090-7165-3831)
11月20日(火)から12月2日(日)まで、午前11時〜午後6時



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