*ミントの人物伝その39−3[第278歩・雪]

ヘレン・ケラーは母親から、保己一のことを繰り返し話してもらったそうです。
彼女は保己一から大きな勇気をもらい、人生の目標にしていたといいます。


(ミントの人物伝39−3)


1779年(安永8年)、いよいよ保己一は
ライフワークと定めた『群書類従』の編纂にとりかかった。
だが難事業であることは明らかだった。


文書を蒐集(しゅうしゅう)する。
内容を精査・校正する。
版木を作成する。
印刷・発行する。


こう書けば簡単だが、
当時の出版事情を考えると、多額の費用と膨大な労力が必要であり
本来、個人の力で出来ることではなかった。


毎朝4時に起床し、般若心経を唱える。
平河天満宮(のちに和学所天満宮)に、大願成就のお参りをする。
そして編纂事業にとりかかる。
彼はこの習慣を亡くなるまで欠かさなかった。


平河天満宮


保己一は検校の地位を望んだが、それは決してぜいたくをするためではなかった。
検校になれば幕府を動かして、費用の援助を受けることができる、と思ったのだ。


ちなみにどんなに出世をしても、保己一はいつも多額の借金を負っていたという。
なぜなら彼は、この事業に資金をつぎ込んでいたからだ。
自分のために使った金などほとんどなかった。
身なりはいつも質素で、食事は一菜一汁。
ぜいたくとは無縁の人生だった。


1783年(天明3年)検校になる。38歳。
なお、彼は多忙ではあったが、検校としての勤めも見事に果たしている。


1785年(天明5年)、水戸藩の彰考館に招かれて、『源平盛衰記』『大日本史』の校正に参画。
これにより、幕府からも学問的力量を認められ、大いに名声が高まった。
以後、弟子や協力者が増えて、編纂事業が軌道に乗ってゆく。


この頃だろうか。こんな話がある。


ある夏の夜。
保己一が「源氏物語」の講義をしていたとき
風が吹き込んでロウソクの火が消えてしまった。
講義を聴いていた弟子達は大騒ぎ。
おさまったあと、保己一が言った。
「目が見えるというのは、見えないより不便なものですな」
弟子達はどっと笑った。


考えると含蓄のある言葉だと思う。


1793年(寛政5年)、幕府から土地を借り受け、和学講談所を開設する。


和学講談所跡


国学を学ぶための学問所として開設されたが、『群書類従』を編纂する場所として
以後、ここが中心となった。
その後、老中松平定信らの知遇を得、幕府の援助もあり
歴史資料を集めやすくなった。


保己一が生涯をかけた『群書類従』は
1819年(文政2年)、ついに666冊分の版木として完成する。
とりかかってから40年、
貴重文献1273点を収めた空前の大文献集の誕生だった。


群書類従』には、古代から江戸時代初期に至るまでの、
貴重な歴史文書や文学書などが収められている。
厳密に考証・校正されており、資料的価値はきわめて高い。
現在も活用されている。
有り難いことと言わねばならない。


群書類従』完成2年後の
1821年(文政4年)、ついに保己一は
全国の検校のトップである総検校となる。


同年9月、保己一はその偉大な生涯を終える。
享年76歳。
常に人のためにと尽力した人生だった。


最後にエピソードをひとつ。
晩年、三浦志摩守での歌会に、指導者として招かれたときのこと。
彼は、詠まれた五十首の和歌の添削を頼まれた。
家に戻って、その歌を思い出そうとするが、そのうちの三首だけは
どうしても思い出せない。
ふさぎ込んでこう言ったという。
「こんなにもの忘れがひどくなったのでは
今年はわたしも死ぬかもしれない・・」


やはり異能の人と呼ぶべきかもしれない。


(参考文献)
Wikipedia
塙保己一資料館HP
塙保己一とともに」(堺正一)
写真・画像は塙保己一資料館HPから借用いたしました。